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こころとからだがかたちんば

YMOエイジに愛を込めて。

2014年2月28日 金曜日 暮らしの風景 ~猫的作法~

2014-02-28 22:38:29 | 写真日和

いまだ「社会」での肩書きや地位を高めることに躍起な人は多い。
極めて小さなセクト(世間では企業とか業界とか呼んでいるが)で、支配層に9割搾取・利用された奴隷というのに。
本人は酩酊しながら、征服欲・野望を満たされたつもりで、その代償に骨身と生命を削られて死んでいく。

そのような構図に果たして、本人(個)の意識は存在しているのか?
実は「無い」と思っている。
誘導・洗脳され我を忘れた中で、自分を粉にして、死んでも良い、と言っているように見える。
よく戦争に例えられるが。
せいぜいは、お悔やみの香典の集金が増える程度に思える。

正直、自分は「そのような暮らし方」で心の満足は得られない。
そんなことで死んで行きたくはない。
そのようなものに付きあっている残り時間は、もう無い、という切迫感が、今ある。

過去からの「労働は喜びだ」という意見をする類の主義者に、自分はしっくりこない。嘘八百は承知としても。
労働の語源には多様解釈があるが、その一つには、労働とは(英語?だったと思うが)元々、強要され・強いられることを指している。
そう大学時代に学んだのを思い出す。

鶴見済さんの書「脱資本主義宣言」を興味深く読んだことは、過去に記載した。
しかし、それだとしても。。。資本主義社会に抵抗しても、完全にはのがれようないのが現実。

その中で、自分にとっての労働とは、軍資金作りだけが目的であり、それ以上関わるつもりは無い。
過去はこうでは無かった。
しかし、今では、もはや自分の意識はそこまで来ている。

強要側からの刷り込み「社会」抜きで、個の意識の正気を保ちつつ、生き延びる意志。
体内で・もやもやする何かを表出し・外界との行き交いをすること。
それだけを思っている。

上記の征服対価となる「報酬」は、べらぼうに高収入となるので、多くの者たちはだからこそそこを目指すわけだし、
「それが蓄えられれば、ラクになれる」と思うのだろうが、そう言って耐え忍んでいるうちに死んでしまう、という滑稽さ。

お互い似て非なるものだが、自分の心中には、そこに白墨で太い一線が引かれている。
どうも、そこまで付き合う気にはなれない。
というのが、今時点の自分の心境である。

自分には背負うべき扶養者も居ない。大事なのは親兄弟と友人・仲間のみ。
付き合う者は、男もいれば・女もいるし、現れたり消えたりしては行くが、それとしても、重荷を背負ってまでお互いを苦しめ・潰し合う関係性にはならない。
それを言葉として言わずとも悟れる者としか、永遠には付き合えない。

「今を生きる」なかで、露地や街を歩いて、目の前に現れるものたちは、遠き過去からの繋がりでもある。
と同時に、刻一刻と新たに立ち現れる世界でもある。
その交叉する地点が、より良い時であろうと、常々想いながら、周囲との距離感、歩くテンポ、押し引きをしている。

今日は今日。明日は明日。
明日も朝早くから「労働」だが、近県出張。帰りは早い。
帰りに寄り道をして、ぶらぶら出来るのが愉しみである。

■Robert Wyatt 「At Last I Am Free」(アルバム「Nothing Can Stop Us」)1981■












コメント (2)
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