こころとからだがかたちんば

YMOエイジに愛を込めて。

2014年11月25日 火曜日 「いくつかの家に射し込む光」を待ちながら

2014-11-25 23:18:29 | 音楽帳

近時、多くの身近なミュージシャンたちの激しい新譜ラッシュ。
そんな不思議な2014年秋。
ミュージシャンそれぞれへの想いは多様である。

「想い」の多くは、むしろ私のほうに投影される。
「人生を走り続けているうちに、なんて周囲の風景は変わってしまったんだろうか?
私はいつの間に、こんな歳数を増やしてしまったんだろうか?」。

たとえばアンドロイド的中性的美人=アニー・レノックスの変化に驚く。
(なんと)還暦でシワも多くなり、スタンダードナンバーを歌った新譜「ノスタルジア」。

過去にも、カバー集はあった。思わず涙があふれ出た作品「メデューサ」(1995)。
ブルーナイルのカバー、そして、何よりも作品最初の曲「No More "I Love You's"」の永遠の美しさ。
表現力の豊かさ、歌のうまさに感動した作品だった。

しかし、あれから20年が経過しようとしているのだから仕方が無い、と思いつつも、ミュージシャンならば、たかが年齢なる”世間的”一尺度など無視して、羽を付けたままで居て欲しかった。

ということで、今回のカバー集には少ししんみりしてしまった。
「アニー、そんなにおとなしくならないでよ」と言いたくなる。
本来持っていた毒気というかバラのトゲのようなものが、ここにはない。

ユーリズミックスとして初来日した、1984年のあの日。
場所は中野サンプラザ。私は2階席に居た。
アニー・レノックスは赤い髪に、ピシッとキメたスーツ姿。SMを想起するムチを持ち、歌いながらステージを縦横無尽に歩きまくる。ヒトラーのように観客に訴えかけるポーズと狂気じみた妖しい青い目。

そんな日は遠く、年老いてしまった感がぬぐえない。
それは、スティーヴィー・ニックスの作品も似て非なるもの。

そんな折。
長き付き合いであるデヴィッド・シルヴィアンまでもが、まもなく新譜を12月に発表することを知った。

1982年ジャパンを解散させ、1984年ソロとして自らの孤独を背負う覚悟をしたデヴィッド・シルヴィアン。
その一枚目ソロアルバム「ブリリアント・トゥリーズ」を、ロッキンオンは市川哲史さんだっただろうか?印象に深く残る文章を書いていた。
その本は手元にないので正確な文章は起こせないけれど。

シングルカット「レッド・ギター」のモノクロームのヴィデオ。
我々には有名な写真家、アントン・コービンの作品。

そこにはヒゲをたくわえた老人と子供が出てくる。あたりを霧もやが包む中、手を結びあった老人と子供はこちらを向きながら、そのシーンから遠ざかるカメラの中で小さくなっていく。
ロッキンオンの文章で、この点に触れていた。

産まれ・そして・戻っていく。ボクらは、土に帰って行くけれども、それで良いじゃないか。植物や森が、その生命を後に繋いでいくように。そんなくだりがあった。

音楽という不思議さ。英語が分からなくとも、歌詞が分からなくとも、音から受け取ったスピリチュアルなものが、ほぼ意味合い通りだったりすることによく出会う。これはまぎれもなく現実に何度も起きる。言霊(ことだま)ならぬ音霊(おとまだ)という存在が確実にあるのだ。

このロッキンオンの文章も、B面最後の曲「ブリリアント・トゥリーズ」の歌詞に同じ思想が出てくるからこう書かれたわけではないだろう。

シルヴィアンがこの後発表したヴィデオ作品「Preparations For A Journey」(「ブリリアント・トゥリーズ」及び「錬金術」収録曲と映像の組合せ)、そして2枚組「Gone To Earth(遥かなる大地へ)」とこの航跡は繋がっていく。
また、これは市川さん(なのか?)のみならず、私も含め(現代の「エコ」じゃない)大地・自然の一部としての自分といった視点に傾斜していく流れとして、軌を一とするように、彼の向かう方向とシンクロする。
それは、タルコフスキーの「ノスタルジア」などに秘められたテーマとも同期化している。
(1983年に突然発生したニューアコースティックムーヴメントも、その一端を担っていたのだろうか?)

一昨日、Cinematic Orchestraの「To Build A Home」を引用したが、実はこの曲の歌詞を知らぬまま聴いて来た。
昨日、時を見つめる時間がひさしぶりに出来た。そのお蔭で、歌詞を掲載したホームページを見ていた。そこで、その歌詞を読んで驚愕した。
あまりにイメージ通りで「出来過ぎている」からだった。

「出来過ぎている」とは、「To Build A Home」の歌詞が、その静かさに込められたニュアンスを私の脳が勝手に解釈した像とさして異ならなかったことを指す。それは「ブリリアント・トゥリーズ」が描いた世界と一致するもの。
音霊(おとまだ)というのは必ずある。音は想いを伝えるのだと改めて知る。

■坂本龍一&デヴィッド・シルヴィアン 「体内回帰」1991■
シルヴィアンが精神性を深めていく中、今の私には、土に帰るまでの揺らがぬ境地に至れていない。
逆に「ブリリアント・トゥリーズ」と出会った10代当時から20代までの自分には、その覚悟があった。むしろ、その頃のほうが近かった。

それくらい死を恐れなかったのは、今となると「果たしてあれは本当の悟りだったのか?」という想いも強いのだが、恐れを知らない熱病にうなされた精神が宿っていたのは事実だろう。

今は逆にリアル過ぎて死への恐怖が強く、じたばたとしている。昨年後半から今に至るまで。
幼少の頃、毎日自分が死ぬことに対して恐怖を覚えていた頃に戻っている、とも捉えられる。この長き一年、それまで無かったような精神状態が輪廻転生一回転して現れたのだ。この理由なり、原因は分かっている。
コメント (2)
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