
かつて感銘を受けたNHKドラマに「天上の青」という小説をドラマ化したものがある。
その小説は読んでいない。偶然土曜の夜にテレビに映ったものに引き込まれてシビれてしまったのだった。
細かいシナリオは覚えていない。というのもそれを録画したビデオテープはあるのだが、肝心の再生機が壊れている。ゆえに事実と異なることを前提とする。
脳が記憶するイメージの断片では、海が近い地方が舞台である。
そこに現れたか逃げてきたかの男は殺人者である。
海の近くの古い家屋に独りで住まう女。その庭は見事な草花が実っている。
日々どうという変化はない、質素な生活だが、そこには豊穣な美しい暮らしがある。
女が海を観に行ったときに、浜辺の小屋で殺人者と出会い、そこから恋に堕ちる。
女に名前を尋ねられると、男は”天上の青って呼ばれてる”そう言う。
男は佐藤浩市、女を桃井かおりが演じる。
桃井さんは、けだるく発語し・たばこを吹かすお姉さんとして、同じNHKドラマ「男たちの旅路」や日本テレビの「ちょっとマイウェイ」でその存在感に恋し・少年時代ノックアウトされて以来だが、このドラマでつつましく生きる女を演じる桃井さんがひときわ美しい。
一方、佐藤浩市さんに惚れ込んだのはこのドラマだった。
それまでも佐藤さんを観てはいたが、この人の味わいに出会ったのはこのドラマだった。

天上、とはさまざまな意味合いを含む。
”あの世”でもあるし、それくらいの気持ち、という意味で”天にも昇るような”という表現でもある。
とある嬉しいリクエスト(と勝手な自分への引き寄せ)があって、実はとあるお店に流す音楽、そして、それを渡す人に選曲をしている。
勝手に音楽を聴くのは良いが、いざTPOを踏まえた選曲となるといつもの”ああだのこうだの”が始まってしまい、容易に選曲が進まない。
兄やお袋に渡すときも同じで苦しむが、その一方では、どんな風にとらえるのかな?
と聴いたのちの音楽評を訊くのが楽しみでもある。

細野さんの近作に「ヘヴンリー・ミュージック」という作品がある。
今になって、先人たちが創ってきた愛する曲をカバーしたもの。
そのジャケットは、空。そしてそこに停泊する鳥。
とても良い写真のジャケット。

「ヘヴンリー・ミュージック」というのを、私は勝手に”天上の音楽”と訳す。
これも実は、自分のほうに寄せるための解釈だが、今選曲したCDを作るに当たってテーマは何か?と言えば、「天上の音楽」なのだ、と思っている。
そうしていろいろ家の中をがさごそしつつ、買ったり借りたりしたはよいが、ロクに聴けていないCDを含めて”店を広げて”聴いている。

そういう中で最近痛切に感じる一端でもあるが、この100数十年の音楽だけを聴いていてはいけないということ。
たとえば、本当にリラックスすべき(この部屋ではない)場で聴いて、本当にリラックスするのか?と問うと、イーノやアンビエント周辺はともかく、ほとんどの音楽が起承転結やあるベクトル・指向を持っていて役に立たない。
そんな折に、ラジオ「オッターバ」で中世の音を聴いたり、CDで民族音楽を聴いたりすると、いかに我々が極めて狭い領域の音しか聴けていないのかが明白に分かる。
先人たちが築いた音楽を素晴らしいと思い、そのエッセンスを参照した音楽。
80年代初頭に、エスニックな(この物言い自体が物議と論争を巻き起こしたが)要素を取り込んだ音楽三昧。
それが起点となり、源となる音を聴く追及が出来たのはありがたいことだった。
PIL、トーキングヘッズ、イーノ、ポップグループ、スリッツ・・・・etc
今考えているのは、長い歴史・伝統に裏付けられた音楽とここ100数十年の音楽を交互に配置してCDにすること。流して聴くと別の像が浮かびあがるはずだ。

■YMO 「新舞踏」1981・ウィンターライヴ■


全然関係が無いが。
昨夜、久しぶりに寅さんを視て、相も変わらずうなっていた。好きなもので。。。
1984年公開の作品。
”マドンナ役”の中原理恵さんが、鬼のように美しい。
寅さんは素敵だが、当時、現実世界で彼女に愛されていた幸宏さんをうらやましく想う。
