ガムラン音楽を初めて知ったのは、1981年だった。その前にどこかで聴いているはずであるが、記憶にあるのは1981年のこと。
スネークマンショーの2枚目LP「死ぬのは嫌だ、怖い。戦争反対」という、半分本気で半分揶揄した微妙なタイトルのレコード。白ならぬ”黒い羽”が付いたレコード。
当時、桑原茂一がバリ島に行って録音した「ガム・バン」というガムランが入っている。このLPは1981年10月発売なので、これがガムランを聴いた初めなのかもしれない。
同じ1981年。
発表より少し遅れて、トーキングヘッズ「リメイン・イン・ライト」とそのベーシックトラック「ブッシュ・オブ・ゴースツ」を聴いた。ここでは様々な民族音楽の要素がコラージュのように取り込まれ、カラフルな色合いでもって、アフリカ的に同じフレーズが繰り返される。その音の種類の一つにガムランの刻印が見てとれる。
あるいはこの1981年11月21日発表の問題作。
「BGM」に続いて発表されたYMOの「テクノデリック」。
ガムランの影響が顕著に現れる「新舞踏」。
ケチャはこの「新舞踏」ではまだ穏やかだが、教授の「京城音楽(Seoul Music)」では、サムルノリを韓国に見に行った際の情景描写を語りながら、ケチャの掛け合いがこの曲のメインで鳴っている。その声の拍子とガムラン的な音がバックで鳴りつつ重なり、独特なグルーヴ感を産み出している。
(この曲は後に、映画「AKIRA」サントラで芸能山城組が演奏した音楽に繋がって行く。)
■YMO 「京城音楽(Seoul Music)」1981■
短秒だけループする初代サンプリングマシン、松武秀樹自作のLMD-649が描く反復は、「BGM」とこのアルバムでの着眼点であった民族音楽-現代音楽-リピートミュージックの新しい解釈として、プリミティヴと繋がる世界を見せてくれる。
祝祭で鳴らされる音の繰り返しがトランス状態にいざなうように、これらの音楽にある呪術的な繰り返しは、別世界への扉となる。
YMOへの民族音楽の導入は、(現代音楽もそうだが)教授によってもたらされた。
世界各地を巡り歩くフィールドワークを通じた研究を行っていた民族音楽の探究者・小泉文夫先生。そのような道を目指していた坂本龍一が、民族音楽に詳しかった。
それをポップミュージックのフィールドに持ち込むたくらみの発火点は、教授による。
じゃあ、さかのぼった前作・アルバム「BGM」の発想は?というと、それは確かにプロデューサーである細野さんの指示だが、現代音楽の発想がふんだんに盛り込まれている。
それも明らかに教授経由で教えてもらい興味を持った細野さんが実践に踏み込んだものであり、またこの構想は「B-2UNIT」のコンセプトと軌を一にしたものだった。
時代に敏感な桑原茂一先生がガムランをLPに入れたように、みんなこの時点で、バリ島のガムランに憧れていた。