こころとからだがかたちんば

YMOエイジに愛を込めて。

2015年7月18日 土曜日・深夜 「夏の音色 いとおしさと切なさ・1」

2015-07-19 00:57:49 | 音楽帳

【1982年6月18日 東京プリンスホテル 坂本龍一&ホルガー・シューカイ】
ただ淡々と音楽を創るだけで音が天才的開花するのに、1982年後半以降・坂本龍一は野心的になっていった。

男が男を恋してはいけないのだろうか?
などとゲイのせりふを気取るつもりはないが、1981年までの”きょうじゅ”の孤独な背中への想いは、確実に恋だったのだろう。
それは、幸宏へも、細野さんへも、D・シルヴィアンへも、その他出会った素敵なマレビトたちへも。

そういう意味では、多くの男たちに恋してきた。
恋が切ないのは、いくら一方的に想おうと叶うことはないこと。
いや、叶うこともあるが、かなった途端に恋はリアルに染まって崩れ落ちていく。これを上手に言語化したのは、中島らもさんのエッセイ集「恋は底ぢから」。

***

坂本龍一は、うぬぼれても良いほどに元から才能があるのに、逆に陰鬱にシャイにとどまっていたのが1981年までの教授。それが私にとっての姿。
矢野顕子と一緒になることを決めて、少し気が緩んだ1982年。アッコちゃんと手をつなぐ写真が載る「愛がなくちゃね」。それから間もなく大島渚に誘われてラロトンガ島で、何の楽器も無い手持ちぶさたの戸惑いの時を北野武と過ごす。

日本に戻って、監督・大島渚に俳優としてではなく、音楽家としてサウンドトラックを創ることを取り付け、曲制作に入る。
カンヌでは映画は賞をもらえなかったが、映画「戦場のメリークリスマス」サウンドトラックの素晴らしさは多くの影響と余波を産む。そして、彼は否定したYMOの外側に行っても、再度取り巻きに囲まれ、周囲からの注目渦中に引きずり込まれた。「細野さんみたいに、トータルコンセプトアルバムを創りたい」というあこがれを掴んだ瞬間。それはきしくもオリジナルアルバムでは無かった。

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さまざまな偶然が相まって関わることになった映画出演。
しかし、その「戦メリ」の産物であるサウンドトラックの成功は、当時(父親の投影としての)仮想敵であった細野晴臣を超えようとする想いを満たすものだった。

この契機は極めて重要で、[広告代理店-マスメディア-音楽業界]連帯は彼の商品価値に喰らい付き、いっぽうで本人は浮かれた。80年代、その後多大な影響を創る本当の文化の重要な萌芽と事件は1980~3年で尽きており、そこで完成されている。
彼は(仮想敵たる細野さんのバンド)YMOが1983年末をもって亡きあと、本当は敵無き世界にバランスを欠いたはずである。その不安定さは(それ以前に創られた曲としても)仕上げた1984年「音楽図鑑」のチューンに聴こえる。

1986年、他人なら既に数人分以上の素晴らしい作品を創り終えた中で、初めてのソロライヴ、ツアー。坂本龍一34歳のこと。そこには、YMOという敵を失い1人で立つ苦しさと戸惑いと必死さが見てとれた。

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その後持ち上げられ続ける中で、1987年「ラスト・エンペラー」までが成功する。そこから馬鹿な用語「世界のサカモト」が謳われる。
私の悪しき親族が彼と仕事をしたのは、1989年「ビューティー」前後。幻冬舎・見城徹氏と深夜呑んだりするさなかと思える。時代は狂気のバブル。

1983年以降の坂本龍一は「戦メリ」という、ロッククライミングで言えば岩に打ち込めた杭を手掛かりにして、山を制覇していくことに躍起だった。ただ私にとっての彼が1981年までとそれ以降(一定時代以降は別で元に戻る)で異なるのは、野望を持つか否かである。野望とガッツを持ったからゆえ、それ以降のありえない作品の数々を創り得たのだが、私は彼に野望もガッツも求めていなかった。

坂本龍一父・一亀は、世に三島由紀夫を送り込んだ編集者。
その父を憎み抜いた子供=龍一が、なぜかその言行がどうしても私の中では三島由紀夫に一致する。自ら才能があることを他人から明示され、変な自覚を覚え・厳然たる名誉を与えられるうちに、それを背負うことになっていく様。

女たらしと相反する三島では様相は異なるが、本当に寝食を忘れ仕事に没頭し、狂気じみた執念の下で作品を紡ぎ出していく。そのためには周囲も他人もどうでも良い。
バタバタとスタッフが倒れようがどうしようが、元・健康優良児=坂本龍一の自我を貫くためには、周囲の者が病気や死ぬ犠牲を払ってでも自分の作品を優先する。これが80年代の教授の実像である。その点で過去を振り返るとき「言わずもがな」の教授像で一致する。

名音楽家=善人である必要はカケラもない。音楽さえ素晴らしければ良いのである。
そのためにはあらゆるものを利用する。そして、そこの犠牲に対しての責任を取らない。
周囲のスタッフからの「あの野郎殺してやる」とか「もう二度と彼の仕事はしたくない」。仕事に関わった知人からの肉声と一致する。

これは、いつの間にか周囲に素晴らしい音楽家が現れて接近してくる細野さんとの違いである。日本の音楽史を背負う細野さんが行くところには動植物が集まり、森を形成する。

その2人が(私は見に行けなかったが)和解から時を過ごし、2人だけのライヴをした。
そのさまは素晴らしいけれど、隔世の念もあるし、2人とも妥協してほしくない。老いたような様を頼むからしないでほしいと思う。

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今日歩く中で、mp3プレイヤーから教授の1987年サウンドトラック曲が現れ、聴き歩くうちに、つい涙してしまった。それは、どれだけ自分が偉大なのか・坂本龍一が偉大なのかを放射するために日夜身を削って、こうもりのように羽を広げて大きく見せようとする様への痛々しさ。きしむ音が美しいメロディに聴こえるから。

wikiで、この曲は坂本龍一は作っていないという周囲のスタッフの批判の声を見たが、結果的には「坂本龍一的」な音楽と仕上がっている。そこに奉仕した人々の苦しみと対立があったとしても、それでもこの曲は私の心に響いて仕方がないのは事実である。

■坂本龍一 「オネアミスの翼」メインテーマ 1987■
コメント (4)
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