こころとからだがかたちんば

YMOエイジに愛を込めて。

2015年7月10日 金曜日  「初夏のサウンド32 音楽トカトントン」

2015-07-10 23:46:15 | 音楽帳

欲しかったラジカセをやっと手に入れられたのが、小学6年と中学1年の境い目1978年。

勝手に入れられた塾の行き帰り。
カネも無いので、その旅路の友は、小さなハンディラジオと片耳イヤホン。灯りのたゆたう夜街をふらつき、中央線等々電車の車窓を流れる光を眺めながら聞くラジオはひそかな楽しみだった。
だけど、楽しかった余韻を残しつつ、そのラジオ放送は空気に溶けて消えていく。
元々メランコリー気質なので、過ぎていく街の風景と共に切なさが体内充満していた。何とかそれらを定着させられないか。。。そこから、手に入れたいと渇望したのがラジカセであり、カメラだった。

カメラは置いておいて、ラジカセを購入するとラジオのみならず色んなものを録音した。
オマケで付いていたマイクをジャックにつないで、野外の空気音・クルマが通る音・鳥の鳴き声・人の声・・・etc。

さらに、そこから進んで今度はカセットテープを巡って色んな実験をし出した。
録音したテープを引っ張り出して無作為に切り刻み、セロテープで貼り合わせて、もう一回もとに戻して聴く。あるいは、それを裏返して逆回転させたり、輪っかにしてテープループ、更にはラジカセの消去ヘッドにマスキングをして、その上から録音を重ねるなどなど。

こういう実験の一方で、リアルタイムの音楽に興奮し追い掛けて聴いていた。
この2つの同時進行形は、その後奇妙なねじれと崩れを起こす。
それは、「音楽」として流通経路上でパッケージされ売買されるものに、予定調和的な起承転結や作為を見い出すと覚めてしまう瞬間があったこと。

太宰治の名短編「トカトントン」一節と同じ。
イコールではないが、渋谷陽一さんが当時盛んに”産業ロック”と繰り返し言っていたのもこれに当たる。音楽様式の形骸化に、どうもおかしいな、おかしいな、と薄々気付いていたものが、私の中でゴマカシが効かなくなり全面的にあらわになったのがアフターYMOの1984年。決して「良い」とも「楽しい」とも思い切ってもいないのに、ノイバウテンの機械やノコギリ音をひたすら聴いていた日。

この奇妙なねじれ感覚が今よぎるのは、音楽よりも今”ニホン”で、大きな意味の社会でも・身近な社会でも毎日起きている事たちへの興醒めなのだろう。
休みの日に歩いているときは感じないものを、日々仕事をしたり社会の一部に属した平日に感じる。離人症的な感じや、膜が張ったような視界・目の前の光景。

脳とカラダに汗かいて働く最中このようなことばかりを見聞きしていると、それは聴くほうにも影響する。浸食してくる。
今になって久々にDAFを取り出して聴いていたのもそのせいだろう。
音楽も社会とは無縁では居られない。「すべてのものが同時代的であらざるを得ない。」(坂本龍一)
mp3プレイヤーに入れた楽曲には、今まで書いていない類の曲が次第に入ってきている。
ありきたりの楽曲展開から浮気してしまうときがある。

資本家たちにとって商品価値がMAXだった時点のYMOに反旗をひるがえし、YMO脱退と引き換えに手に入れた権利でもって坂本龍一が創った作品「B-2UNIT」。そこからは、ロンドンレコーディングの中、録音したニュース番組の音を切り刻んで構成した「Not The 6 O’clock News」。あるいは、大竹伸朗さんのユニット「19(ジューク)」の曲。平沢進さんの曲など。
昔カセットテープで創った意味不明の音を想い出す。当時はいくらやってもダメだ、と消してしまったが、あれはあれで取っておけばよかったと思う。

この手合いの音楽はその後”アヴァンギャルド””ノイズ・ミュージック”だとか言ってカテゴライズされてしまい、音楽選者がえらぶのはいつもキャバレー・ヴォルテール、スロッビング・グリッスル等々だったりする。既成の場所から逸脱することで、パッケージの外側に価値を産み出そうとした産物までもがパッケージされていく現実。
これら実験音楽家の皮肉な運命とは、こういったジレンマにある。

まあ、そう思ってしまう自分自体が、そういう事象に行き詰まってしまうのなら、そんな類の本は読まず、日々の事象を歩き倒して流し去り、行き詰まって聴こえる音は聴かず。
しばらく離脱・回遊して自由に耳を澄ませることだろう。

■飴屋法水 「ジャパニーズ・ソング」1991■

PS:仕事の一端で、「コーディネーター」「デザイナー」などと関わらざるをえないことが多い。311を経て、これらはそれまで通りのオナニーでは意味が無く・不毛であることがあらわになった。
しかし、まだ旧態依然とした表面的なキレイさだけや内輪世界にこもり、利益を享受しようとしゃぶりついている連中を現実に見る。そのたびにトカトントンが鳴り出す。

衣・食・住における「住」は、雨風しのげることが優先であり、それ以上は正直不要である。これは1995年大震災後の神戸現場に立った際にも思ったこと。
日々の暮らしにとって、上記の類の連中/事柄が潤いを満たしてくれるなら、それはそれで良いが、そうではない。そんな連中が、4年前のことを流しつつ、相変わらず復活してきている。



■坂本龍一&アンディ・パートリッジ 「Not The 6 O'clock News」1980■
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2015年7月8日 水曜日 「初夏のサウンド31 流されていく日々を縫ってきこえてくる音」

2015-07-08 22:10:22 | 音楽帳

長く続く梅雨と変幻自在な不安定天候に惑わされ、にぶい圧度の仕事も加わり、精神も塞がれていくような錯覚をおぼえることがある。背中を伝って肩・首・頭・眼と痛みが入ることも多い。
脳内にはさまざまな雑念が宇宙空間のようにぷかぷか漂い、それぞれを気にしているうち疲れてしまう。
疲れたら休めば良いが、容易にリラックスや眠りに堕ちていかない。そうぶつぶつ言っているうちに、目の前をすごい速度で日々が過ぎて行ってしまう。

まだ5月。まだ6月。と言い聞かせているうち、7月に入ってしまい、不慮のバーゲンのせいで怒涛の人の渦に巻き込まれ、それを抜けて猫たちが潜む場所へと歩を進めるが、祭りの嵐だの夏の催事だのせわしない。
暗闇の東京の道を歩いて町内掲示板を見ると、もうそこには七夕だ、花火だ、夏のラジオ体操だ。

毎年のことながらも、独立記念日を過ぎるとあっという間も無く七夕も過ぎてしまい、入谷朝顔市にも行けないまま終わってしまった。「また来年行けば良いよ」と周囲は言うし、昔ならそれで流したものだが、もう今はそんな気にはならない。一日・一日がもう二度と立ち現われないものだから。

時に真っ暗で何も見えない夜もある。
そう言いながら、地方都市から戻る帰路の電車でDAFをイヤホンで聴いているうちに、DAF&コニー・プランクの繰り返す音が次第に呪術的な作用をもたらし、数分こっくりこっくりする。
また、19時過ぎ雨降りの合い間てくてく歩く逢魔が時。佇む街の狭い露地で聴こえてきた「音楽のような風」(EPO)に心地良さを覚える。土砂降りに戻れば、その雨音を縫って迫ってくるアトモスフィアの奥底かららせんを描くジ・エッジのギターが鳴り出す「約束の地(Where The Street Have No Name)」(U2)も良かった日だった。2年前・心の底に刻まれた音魂たる一曲。死ぬまで背負っていく一曲。

先週まではそれなりに初夏的楽曲を入れていたポンコツmp3プレイヤーは、今やジャングルのように多様な季節の多様な楽曲構成。ほとんど私なりの初夏曲だが、そうではないものも混じる。不意に出てきて変える間もないときも多い、それもまあ良いではないかと思っている。

まるで「ハレ」と「ケ」でいう祝祭空間全部を嫌っているかのように思えるが、昔から土着化した商店街のにぎやかさが好きだったり・歩いてはニンマリしたりほっとしたりすることが多い。
今年まだ寒い時期に巣鴨通りで買ったお地蔵さん。大事なそのお守りをポケットに忍ばせては、痛いところをなでなでするのが、最近のクセの1つである。ああだこうだと言いつつも、それでも日々を楽しんでいるようにも思う。

一寸の余地でも、それをもとに、生きる友たちがすこやかであることを。

■Crowded House 「Don’t Dream It’s Over」1986■











◇今週のプレイリストの一部◇
1・砂原良徳 「アースビート」
2・スザンヌ・ヴェガ 「99.9℃」
3・カン 「I Want More」
4・ジ・アート・オブ・ノイズ 「ロビンソン・クルーソー」
5・クイーン 「Staying Power」
6・スティーヴ・ジャンセン&リチャード・バルビエリ 「Distant Fire」
7・Jam 「プレシャス」
8・坂本龍一 「明星中華三昧CM」
9・クラウテッド・ハウス 「Don’t Dream It’s Over」
10・高橋幸宏 「淋しさの選択」
11・Bvdub 「There Was Nothing But Beauty In My Heart」
12・坂本龍一 「ロイヤル・スペース・フォース」
13・坂本龍一 「Happy End」(シングル「フロント・ライン」B面・原曲)
14・DAF 「The Robber & The Prince」
15・スミス 「Unloveable」
16・EPO 「音楽のような風」
17・U2 「Where The Street Have No Name」(約束の地)
18・キング・クリムソン 「Matte Kudasai」
19・プリテンダーズ 「愛のパラダイス」

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2015年7月5日 日曜日 「初夏のサウンド30 忘れ得ぬ発光」

2015-07-05 23:24:18 | 音楽帳

7月4日 土曜日
自らを生きることにまい進しても副業たる仕事も放置出来ぬ状況で、今週「も」その間に引き裂かれて不眠症っぽかった。金曜夜は限界で、知らぬ間に気絶寝していた。「ふつうのひと」が持つ・受け流し許容量が自分には無いので、鍛錬をいくら積んでも疲れてばかりいる。

数時間寝ると出てくる腰痛に起こされる。9時ごろラジオをつける。永さん・外山さんの声。
ゲストで八千草薫さん出演。永さんは緊張し、午後の若山弦蔵さんは「自分が座る椅子に八千草さんが座っていた」とにぎわう。

ぼうっとしているあいだに時間ばかりが過ぎてしまう。
それは好ましい時間の過ぎ方ではない。外は深梅雨まっしぐらで薄暗く、本来梅雨時が持つ風情すらかき消された心情。「外に出たいが出られていない」いやな時間の過ぎ方。お風呂に入り外に出られたのは、久米さんのラジオを聴きながらの午後1時半数過ぎ。

外に出て「ぽつっ」と一粒の雨を知ったが、戻る気になれずそのまま進む。
歩くたびに水滴は小粒から雨になっていく。タオルで汗とカメラを拭きつつ歩く。
途中からバスに飛び乗り移動。巣鴨あたりで降りればもはや雨・雨。やむなく地蔵通りで傘を買う。

自分の誕生日がアメリカの独立記念日であることは、小さいころ兄から教えてもらい知った。
何か因縁めいたものを感じる。
毎年という訳ではないが、この日には、U2の1984年作品「焔(ジ・アンフォゲッタブル・ファイア)」に収められら「7月4日」を聴く。U2のギタリストであるジ・エッジの即興音を拾い、ミシン職人が部品をかがり縫うように、ブライアン・イーノが1つの曲に仕立て上げたとおぼしきもの。血塗られたアメリカの刻印。

■U2 「4Th Of July」1984■

ブライアン・イーノは、1982年マンハッタンでの立川直樹氏とのインタビューや1983年来日講演時「ロックには一切の未来や発展性が無いから興味が無い。興味があるというなら、お寿司の方が興味がある。」そう言った。
それは、イーノがインタビューを受けると、プロデュースしたディーヴォ・(ジョン・フォックスが居た頃の)ウルトラヴォックスやトーキングヘッズに関する話に焦点を当てられ、そのインタビューに辟易として最後通告として言う捨てゼリフだった。

ボノがいくらブライアン・イーノを恋焦がれようと、繋がりえない関係性。想いがいくら強くとも、まさかそれは無理だろうと思っていた。ところが1984年、U2をイーノがプロデュースした「焔」があっけなく発表された。

スピリッツに満ちたU2とイーノの融合。スティーヴ・リリィホワイトがプロデュースした3枚目作品「WAR」で全世界に知られるようになって後、ライヴアルバムを挟み、一体どう出るのか?というさなか、意外や意外な立ち現れ方をしたU2は、熱情を抑え・少し引いた感があった。それを渋谷陽一さんは”元・熱情少年のたそがれ”といった具合にレビューしていた。渋谷さん自身がそうであったことを語りながら、そのたそがれ感が良く出ていると述べていた。

「The Unforgettable Fire」とは、日本に昭和20年落とされた原爆のことを指している。

イーノはボノの輝きに惹き込まれて、この仕事を引き受けたと言っている。その心理やいきさつがどこまでその言葉通りかは、インテリであるイーノのことだから分からない。しかし、この2つのありえない繋がりは、その後の「ヨシュア・トゥリー」を産むことになる。

■U2 「A Sort Of Homecoming」1984■

思えば、80年代において形骸化した中古品である「ロック」を演奏する、そのこと自体が困難な時代だった。そんな中で、U2や数少ない者だけが気炎を吐いていたような孤立無援的様相を呈していた(行動も含め、そう位置付けされていた)。それを日本にあてればRCサクセション。
しかし、2つとも「当時のロック」と一緒にしがたい音楽。ブルースの影響下、派生形として産まれたロックは、この当時の多くの音楽によって、その源を絶たれていたのである。
そういう自分は、ブルースとロックの繋がりを当時肉体として分かっていなかった。
しかし、U2に関して色んな人が言っているが、今になって振り返ればイーノと立川直樹氏の対談と繋がる。

1982年のインタビューでイーノの暮らし方のくだり。
イーノはコレクションを持たない主義、当時のアルバム=LPが増えると何らかの手段で処分していること。しかし、カセットテープはたくさんあって、そこにはLP「オン・ランド」に活用された自然や野外の音もあるが、もっぱら大好きで聴いているのはゴスペルだということ。U2との結びつきはここにあるのだろう。



7月5日 日曜日
周囲の人より劣った機能のミニmp3プレイヤー。その中身を入れ替えた。
陰鬱な空気が支配する昨日今日、少しは明るい音楽を、と初夏的ではない音も含めた。
外に出て歩くが、写欲も歩く気力も湧かない。どうにもエンジンが掛からない。

植草甚一さんのスクラップ・ブック展をかなり前から知っていたが「また今度行こう」と思いつつ、結局この土日最終日となってしまった。そして結果行かなかった。
見たい心はあっても、いつも目的を持たずくねくねするので、無理矢理行きたくない場所にむかえなかった。いくら植草さんの肉筆を見たくても、世田谷なぞには行きなくない。元々ぐずっていたのはそのせいである。

そういう中でほんのわずかばかりの救い。
夜がしだいにあたりを染め成す逢魔が時に聴いていた「ドミニオン」。聴いているイヤホンからの音が、周囲の風景と空を起点に宇宙的な舞いをした。

■Tangerine Dream 「Domimion」1982■
この「ドミニオン」はクロスオーヴァーイレブンでも掛かり、エアチェックしては夜によく聴いた。この曲を収めた「ロゴス」というライブアルバムは素晴らしい。
ライブアルバムというものは、過去発表してきた曲をライブで演奏したものという法則がほとんどだが、このアルバムは全て新曲であり(自分が知る限り)スタジオ録音されたものがない。(同じような試みを、この後ジョー・ジャクソンが行っている。)

PS:先ほど、エドガー・フローゼまでが亡くなってしまったことを知った。
ショックだが、夢のような日々とは音という場でいくらでも再会出来る。そう自らに言い聞かせる。
これからも彼らの音楽を聴き・励まされながら生きていく。
そう言いながら、まったくその自信を欠いているが。



「絆」という名のラヴホテル










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2015年7月3日 金曜日  「初夏のサウンド29 インソムニアック日記」

2015-07-03 23:33:59 | 音楽帳

【「スクラップ1996~98年頃」 大阪から東京に戻る際、荷物を詰めた引っ越し段ボール。戻った部屋に積んでいた。
そこに適当にチラシを貼っていったものは、放置され続け日焼け。その段ボールを分解し、生きた部分だけを残すこととした。
置き去りにされたものを見たとき網膜に入ってきた不思議さ。】

これは絵を描く人ならよく解かる話し。
何かをしようとすると、いつの間にかその行動の渦中に心身ともにとらわれてしまう。次第に意識としてまとめよう・理解しよう・体裁を整えよう、といった「作為」が働く。

しかし、その「作為」をみずから分かるのは、渦中でもがいていた時から距離が置けた地点。
そこに来て振り返れるほどになってからのこと。
この距離感。

そこで想い出すのは、深夜虫の鳴く四国の”はなれ”兼アトリエで、絵に向かう大竹伸朗さんの著「見えない音、聴こえない絵」。そこに記された周囲との間合いに関するシーン。
また、サウンドストリートでの教授と幸宏の会話。
”レコード制作の締め切りが迫ってくるとトラックを埋めていってしまうんだよね。そんな<整理的な>行為がそれまでのインスピレーションを台無しにしてしまう”といったくだり。
もしくは三島由紀夫さんのこと。

昨夜、ふだんは座らない家の紙ゴミが溜まった場所に座っていた。
人が見たらゴミ屋敷と確実に呼ぶ部屋。その作業場。頭痛、眼痛、疲労感、だるさ。

座った位置から少し離れたところにあるラジカセは、聞こえるか聞こえないかのはざまでラジオを流す。
雑多なものが埋め尽くしたつくえのゴミを適当に寄せ、そこに出来た数十センチ角の狭い空間。そこにカッター・ノリ・物差し・チラシ類を目の前にして、貼ることをためらいながら室内のエアコンの音を片方で聴いていた。

まとめようとする脳や習慣、そんなものは社会に飼い慣らされたROBOT的反射神経にしか過ぎない。それを理解しながらも、それが巣喰らう我が身は、自分で持つことを拒否したスマホいじり中毒者をどうのこうの言い切れない。そのもどかしさ。

支離滅裂さのほうが信じられるのに、そこに染まり切れない。
社会に属さざるを得ない、カネを手に入れないと生きられない、世間が言うそれらは真実ではない。しかし、オトナになって以降、その刷り込みとウソすら捨て去れず、結論を引き延ばしてきた二十数年。それは、このカラダをむしばんできたはずである。

止む無く(と言い訳をして)社会人となった・二十代そこそこの出来損ない。
”ああ、仕事に行きたく無い、アイツに逢いたく無い・・・”も毎日続けば、次第にそれを超えようと/ココロの持ち方を会得しようする。このディシプリン/鍛錬を日々繰り返していく間に、その苦労は社会そのものよりも社会病に馴染み・心神喪失していく。

「この境遇から今すぐにでも逃亡し、消息を絶つ」に傾くことと・鬱から「自死しかない」と思うことの間で揺られながら、次第にその振幅は小さくなっていった。

そういった物言いもあたかももっともらしいが、そうやすやすと思えたのは三十代から四十代前半までであり、その後深刻に生と死を知るのは四十後半。誰かが(神が?)この心身に宿ることを命じてから諸々を経て、元々あった窮屈さや我に帰るのは四十後半。
正直、この半年は異常な怖い速度であり、早くも明日「産まれたんだろうね、たぶん」という日をむかえる。

四十にして惑わずなどは知る由もない。時の積み重ねが今に至る、なる発想は疑わしい。
しかし全否定出来ないその発想がよぎるのは、自らの心身が従属する社会によってクサリを掛けられ奴隷になっているからなのだ。
・・・とすれば、と、そこから目覚め・思想=宗教を持って産まれなかった”わたし”に戻ることを辿ろうとするけれども、そんな”考え”で容易に戻れるものでもない。

一昨日は、とある女史と二人お酒を呑んだが、饒舌になり笑わせる役に好い気になるうち深夜となり、電車は島への帰路途中で絶たれた。
酔い覚ましも含めて深夜の迷路を歩いた。見たこともない/しかし何度も歩いた道の魔界に入り込んでしまう。初めて見るシーンのように視えてシャッターを切る。

汗だくになったおかげで酒は抜けたが、これ以上は歩けないと途中からタクシーに乗って帰る。
その後、今度は眠れなくなる。灯りを消した暗闇で横たわるが、次第に頭が行き詰まったので、みうらじゅん先生の出演した番組を聞いた。

そのうち多少・心は緩みに入ったが、それも鳥たちが鳴き出す頃。
むしろ、明け方から眠っては起きられないだろうという時間。
そのせいで深くも眠れず、堕ちたり戻ったりとあちこち精神が行き交っているうち、朝のアラームに切断された。社会に出向く用のモビルスーツを青白い顔で身に着ける。

得体の知れない不吉な塊が私の心を始終おさえつけていた。焦燥といおうか。
何かが私をいたたまらずさせるのだ。それで始終私は街から街を浮浪し続けていた。

そこからの私はどこへどう歩いたのだろう。私は長いあいだ街を歩いていた。
始終私の心をおさえつけていた不吉な塊がそれを握った瞬間からいくらかゆるんできたとみえて、私は街の上で非常に幸福であった。
あんなにしつこかった憂鬱が、そんなものの一顆でまぎらされる。

それにしても心というやつは何という不可思議なやつだろう。



■ミヒャエル・ローテル 「音響体」1982■

【最後一部は、梶井基次郎さんの文筆『檸檬』よりの部分カットアップ。】
ミヒャエル・ローテルの「熱地帯」は、1982年9月1日に国内発売された。
ポリドールのレコード広告コピーは『発見!もう一枚の環境音楽(ルビが”アンビエント・ミュージック”と振られている)』。そのコピーがモノクロームなLPジャケット写真へさらに不可思議さを添えていた。

この国内発売を受け、当時FM「クロスオーヴァー・イレブン」ではさかんにここからの曲が掛かった。夏の夜に浮かぶ音楽の1つが「熱地帯」でもある。
その中でもB面2曲目「音響体」は、砂漠の昼・かげろうが揺らぐ風景描写として体内に刷り込まれている。後に90年代「ジャパンの再結成」裏作品として産まれたレイン・トゥリー・クロウ。藤原新也さん撮影写真のジャケットも想い出す。

今日は土砂降りなのにね。
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