楽器作りは良い音が出せればよい!等と言っていられない事に気が付きました。
弓をこう使えば、こういうフレーズでこのように弾くと、ここはピアニッシモ、想いきり長く一弓で。
といろいろ演奏上の事にかかわってくることが多くなります。
演奏家がこうも弾きたい、ここはもっとと思う気持ちを右手を通して弓が音を作り出します。
その時に、いかにその音を作りやすく出来るかが、良い弓だということです。
弓なんかどれでも、弾きにくくなければどれも同じ、と、そうとう上手な人は今までは言っていました。
そのこと自体が、おかしかったのです。
たしかに弘法筆を選ばずとは言います。
しかしヴァイオリンでもチェロでも、弓には相当拘ります。
今までの二胡で弓なんかどれも同じと言われていたのは、本当にどれでも同じくらいだったのでしょう。
折角弓作り始めたのですから、そうは言われたくないですね。
しかし、ここでも、ひとつ問題が出ます。
中国ではもう、どんどん楽器自体も改良され、演奏家も次々と難曲に挑戦していきます。
弓も木の弓が実験的に作られたりもしています。
香港などでは、人工皮以外の蛇皮の二胡など使われていません。
楽器をより良くしてより良い音楽を目指そうという人たちがたくさんいます。
ところが、その楽器が、渡来したはずの日本に、日本人の演奏家の中には、かえって、今は無き古き良き中国文化にこだわって、弾きにくい楽器を弾きにくい弓でいかに弾きこなすかが、二胡などだと、言い切ってしまうような方もいますし。
その方たちが、教育までしています。
伝統を守るという事でしょうか?
それとも中国文化を守るという事でしょうか?
私自身、國學院で、中国史を学びました、この2000年以上、日本の文化を作り上げる基になった、中国の文明と言う物に大変興味があったからです。
私自身がかなり日本的な伝統と言う物を強く意識した世界で育ったからかもしれません。
その日本の文化を築き上げる基になったのが中国文明であったのは間違いないですし、その文明が、日本の元々あった文化と言うのをどのように換え、またどのように浸透して、日本独自の文化が出来上がったのかに興味があったからでもあります。
でも実際に自分の住んでいる世界は、敗戦以来あるいは明治期以来、じわじわと定着してきた、ヨーロッパの文明、アメリカの文化等をもろに受け入れて全面的に向き合ってきた時代です。
英語は教育の中に組み込まれていましたが、中国語は組み込まれてはいなくなった時代です。
そこへこの10数年、二胡を通じてなのか、あるいは反対に中国文化をみなおすということで、二胡が広まってきたのかわかりません。
ただ言える事は、日本人にはこの二胡と言う楽器の音色がとても良く合っているのだという気がします。
たぶん、それは、間、と言う、日本独特の物事への感性、あるいは美術的な感性、音楽的な感性にとても馴染むからではないかと思いますし、
二胡の音そのものをその、間、を持つ物と、受け入れているようでもあるのです。
中国の人達が二胡に抱いている感想とはだいぶ違うようです。
日本人の感性の特色の一つに、省いていく、ひいていく、と言うのがあります。
いくら中国から、文明を受け入れたとはいえ、その哲学や、言葉の一部、あるいは音等受け入れたとしても、その中国的な、民俗文化までは、残りませんでした。
勿論当時としては先進国であった中国の民族文化が、珍しく楽しい物として、日本の色々な地方に残ってもいます。
それを楽しむことの一環で、中国茶や二胡などが流行ってきたのかもしれませんが、どうも殆どの人にとっては、単に素敵な音色、心ひかれる音色でしかないのでしょう。
ネットなどで、あるいはブログやFB などで積極的に参加していく人たちの中には、二胡は中国文化の一部なようですが、
殆ど90%くらいの人たち二胡の音色がすてきね、となんとかその素敵な音色が出せるようにと、頑張っている人達なのだと思うのです
。
二胡の音色はかくかくしかじか、など考えず言わずに、一生懸命二胡の音色を出したいと思っている人達こそ、例え中国的な(現状の儒教と言う哲学を失った金権だけが力だと信じている中国文化)文化など、抜きにして音色を楽しんでいる日本の二胡文化にないるるのではないかと考えています。
その人たちにこそ、直ぐに良い音の出る楽器そして弾き易い、弓など作っていくべきだし、出来るだけ広げていきたいと考えています。
それでこそ日本に良い中国文化が、良い形で残っていき、むしろ本来の形での、中国との良い関係も作れるのではないかとも考えています。
むしろ、私の会った、二胡を教えている以外の中国人の中には、そのように考えている人々も多いと感じています。
弓をこう使えば、こういうフレーズでこのように弾くと、ここはピアニッシモ、想いきり長く一弓で。
といろいろ演奏上の事にかかわってくることが多くなります。
演奏家がこうも弾きたい、ここはもっとと思う気持ちを右手を通して弓が音を作り出します。
その時に、いかにその音を作りやすく出来るかが、良い弓だということです。
弓なんかどれでも、弾きにくくなければどれも同じ、と、そうとう上手な人は今までは言っていました。
そのこと自体が、おかしかったのです。
たしかに弘法筆を選ばずとは言います。
しかしヴァイオリンでもチェロでも、弓には相当拘ります。
今までの二胡で弓なんかどれも同じと言われていたのは、本当にどれでも同じくらいだったのでしょう。
折角弓作り始めたのですから、そうは言われたくないですね。
しかし、ここでも、ひとつ問題が出ます。
中国ではもう、どんどん楽器自体も改良され、演奏家も次々と難曲に挑戦していきます。
弓も木の弓が実験的に作られたりもしています。
香港などでは、人工皮以外の蛇皮の二胡など使われていません。
楽器をより良くしてより良い音楽を目指そうという人たちがたくさんいます。
ところが、その楽器が、渡来したはずの日本に、日本人の演奏家の中には、かえって、今は無き古き良き中国文化にこだわって、弾きにくい楽器を弾きにくい弓でいかに弾きこなすかが、二胡などだと、言い切ってしまうような方もいますし。
その方たちが、教育までしています。
伝統を守るという事でしょうか?
それとも中国文化を守るという事でしょうか?
私自身、國學院で、中国史を学びました、この2000年以上、日本の文化を作り上げる基になった、中国の文明と言う物に大変興味があったからです。
私自身がかなり日本的な伝統と言う物を強く意識した世界で育ったからかもしれません。
その日本の文化を築き上げる基になったのが中国文明であったのは間違いないですし、その文明が、日本の元々あった文化と言うのをどのように換え、またどのように浸透して、日本独自の文化が出来上がったのかに興味があったからでもあります。
でも実際に自分の住んでいる世界は、敗戦以来あるいは明治期以来、じわじわと定着してきた、ヨーロッパの文明、アメリカの文化等をもろに受け入れて全面的に向き合ってきた時代です。
英語は教育の中に組み込まれていましたが、中国語は組み込まれてはいなくなった時代です。
そこへこの10数年、二胡を通じてなのか、あるいは反対に中国文化をみなおすということで、二胡が広まってきたのかわかりません。
ただ言える事は、日本人にはこの二胡と言う楽器の音色がとても良く合っているのだという気がします。
たぶん、それは、間、と言う、日本独特の物事への感性、あるいは美術的な感性、音楽的な感性にとても馴染むからではないかと思いますし、
二胡の音そのものをその、間、を持つ物と、受け入れているようでもあるのです。
中国の人達が二胡に抱いている感想とはだいぶ違うようです。
日本人の感性の特色の一つに、省いていく、ひいていく、と言うのがあります。
いくら中国から、文明を受け入れたとはいえ、その哲学や、言葉の一部、あるいは音等受け入れたとしても、その中国的な、民俗文化までは、残りませんでした。
勿論当時としては先進国であった中国の民族文化が、珍しく楽しい物として、日本の色々な地方に残ってもいます。
それを楽しむことの一環で、中国茶や二胡などが流行ってきたのかもしれませんが、どうも殆どの人にとっては、単に素敵な音色、心ひかれる音色でしかないのでしょう。
ネットなどで、あるいはブログやFB などで積極的に参加していく人たちの中には、二胡は中国文化の一部なようですが、
殆ど90%くらいの人たち二胡の音色がすてきね、となんとかその素敵な音色が出せるようにと、頑張っている人達なのだと思うのです
。
二胡の音色はかくかくしかじか、など考えず言わずに、一生懸命二胡の音色を出したいと思っている人達こそ、例え中国的な(現状の儒教と言う哲学を失った金権だけが力だと信じている中国文化)文化など、抜きにして音色を楽しんでいる日本の二胡文化にないるるのではないかと考えています。
その人たちにこそ、直ぐに良い音の出る楽器そして弾き易い、弓など作っていくべきだし、出来るだけ広げていきたいと考えています。
それでこそ日本に良い中国文化が、良い形で残っていき、むしろ本来の形での、中国との良い関係も作れるのではないかとも考えています。
むしろ、私の会った、二胡を教えている以外の中国人の中には、そのように考えている人々も多いと感じています。