木も同じですね。
何百年かかかって成長した木には、それだけの力が内蔵されています。
毎年毎年違う気候に晒されて、育って行きます。
20メートル、30メートルの高さに育って行く為の力と、その重さを支える力が含まれているのです。
それをいきなり切ってしまうのですから、内部の力は切られたとたんに行き先が無くなり反対の力を発揮します。
木は丸いのです、基本的には丸く育ちます。
環境によっては多少歪んだ楕円ぐらいにはなりますが、丸くなろうとして育ちます。
それは丸が一番体積に対して表面積が小さく纏まるからです。外部に対して守ろうとする力ですが、これを切ってしまえば、丸くなろうとする力が無くなり、今度は反対に反り上がります。
これが木が動く原因なのですが、今まで溜まっていた力がどのようであったのかは、年輪を見ても読み切れるものではありません。
そこで、この動きが多少とも動き切ってしまうまで乾燥させて待つのです。
これは待つしか仕方有りません。
刀も叩いて年輪のように1万枚を越えて重なっています。年輪のようです。
これは鍛冶屋が、人為的に熱を加えて力を加えて重ねたのです。
その溜まった力が、焼き入れの時に一気に形として現れてくるのです。
その重なった力が、形をも作りだし、切れ味をも作りだします。
木はその重なった年輪が、切られた途端力を発揮し、形ずくりに影響します。
人の生きると言うのもそういう事なのかもしれません、何でも無い日々の繰り返しが、1日1日をシッカリ生きていくことが、未来の自分を作り上げていくと思いながら生きていければ、
良い刀にもなり、良い二胡にもなると言う事なのかもしれません。
なんだかじじむさく教訓めいてしまってごめんなさい。
自然を相手に物を作りだすというのは、その扱う素材の中にたまった力と闘い、或いはその中に力を溜めこみ、手をかけ時間をかけてその素材を知り、かろうじて何かの形に出来ると言う事なのでしょう。
如何にちゃんと手をかけるかが、その者の寿命を決めます。
刀はきちっと手入れをしていかない限り、空気に触れているだけでも錆びていきます。
そのままほおっておけばいずれは、錆び切って埃になって夢散します。
二胡もちゃんと弾いてやらない限り音として育ちませんし、皮も駄目になりいつかは唯の木の屑になってしまうことでしょう。
何百年かかかって成長した木には、それだけの力が内蔵されています。
毎年毎年違う気候に晒されて、育って行きます。
20メートル、30メートルの高さに育って行く為の力と、その重さを支える力が含まれているのです。
それをいきなり切ってしまうのですから、内部の力は切られたとたんに行き先が無くなり反対の力を発揮します。
木は丸いのです、基本的には丸く育ちます。
環境によっては多少歪んだ楕円ぐらいにはなりますが、丸くなろうとして育ちます。
それは丸が一番体積に対して表面積が小さく纏まるからです。外部に対して守ろうとする力ですが、これを切ってしまえば、丸くなろうとする力が無くなり、今度は反対に反り上がります。
これが木が動く原因なのですが、今まで溜まっていた力がどのようであったのかは、年輪を見ても読み切れるものではありません。
そこで、この動きが多少とも動き切ってしまうまで乾燥させて待つのです。
これは待つしか仕方有りません。
刀も叩いて年輪のように1万枚を越えて重なっています。年輪のようです。
これは鍛冶屋が、人為的に熱を加えて力を加えて重ねたのです。
その溜まった力が、焼き入れの時に一気に形として現れてくるのです。
その重なった力が、形をも作りだし、切れ味をも作りだします。
木はその重なった年輪が、切られた途端力を発揮し、形ずくりに影響します。
人の生きると言うのもそういう事なのかもしれません、何でも無い日々の繰り返しが、1日1日をシッカリ生きていくことが、未来の自分を作り上げていくと思いながら生きていければ、
良い刀にもなり、良い二胡にもなると言う事なのかもしれません。
なんだかじじむさく教訓めいてしまってごめんなさい。
自然を相手に物を作りだすというのは、その扱う素材の中にたまった力と闘い、或いはその中に力を溜めこみ、手をかけ時間をかけてその素材を知り、かろうじて何かの形に出来ると言う事なのでしょう。
如何にちゃんと手をかけるかが、その者の寿命を決めます。
刀はきちっと手入れをしていかない限り、空気に触れているだけでも錆びていきます。
そのままほおっておけばいずれは、錆び切って埃になって夢散します。
二胡もちゃんと弾いてやらない限り音として育ちませんし、皮も駄目になりいつかは唯の木の屑になってしまうことでしょう。
一度読んだだけでは惜しいような気がするので、また文書にまとめて何回も読み返して愛読しています。前に文書作製しました「二胡物語」と「シシルイルイ しかばねを越えて」も、そんな思いでそれぞれ1冊にまとめたものです。何部かずつ作りましたので、光舜堂に見えた誰かに借り出されていって、ときどきじっくり読み返してもらえればと願っています。
西野さんの文章は、親しみをこめた平易な語り口で書かれているので、面白く読んでいるうちに、その奥に秘められた大切なものを読み流してしまいはしないかと、注意深く、そして興味深く読んでいるのです。
テレビの番組でも「プロフェッショナル─仕事の流儀」など好きでよく見ています。その人たちに共通なのは人格のさわやかさと、そして物事に対する細やかな心配りです。それらはみな、波瀾万丈の人生のなかからもたらされたもののようで、いつも感じ入ってしまうのです。
単なる「こだわり」とも違うのです。もっと広い世界につながる、物事への深い愛情なのだと思います。西野さんの「二胡と刀」そしてそれに続くであろう、次ぎなるシリーズも、今から楽しみにしています。