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晩期資本論(連載第79回)

2015-12-08 | 〆晩期資本論

十六ノ2 ポスト資本主義の展望(2)

 マルクスは、ポスト資本主義の到達点をどのように考えていたか。これについては、意外にも、第一巻の第一章という早い段階で先取り的に触れられていた。「共同の生産手段で労働し自分たちのたくさんの個人的労働力を自分で意識して一つの社会的労働力として支出する自由な人々の結合体」というのが、それである。マルクスは明示しないが、これを共産主義社会の一定義とみなしてよいだろう。

ここでは、ロビンソンの労働のすべての規定が再現するのであるが、ただし、個人的にではなく社会的に、である。ロビンソンのすべての生産物は、ただ彼ひとりの個人的生産物だったし、したがって直接に彼のための使用対象だった。この結合体の総生産物は、一つの社会的生産物である。

 ロビンソンとはデフォーの有名な冒険小説の主人公ロビンソン・クルーソーのことである。よく知られているように、ロビンソンは船の難破で無人島に漂着し、たった独りでの自給自足生活を始める。「ロビンソンの労働」とは、そうしたロビンソンの自給自足を前提とした種々の有用労働のことである。すなわち―

彼の生産的諸機能はいろいろに違ってはいるが、彼は、それらの諸機能が同じロビンソンのいろいろな活動形態でしかなく、したがって人間労働のいろいろな仕方でしかないということを知っている。必要そのものに迫られて、彼は自分の時間を精確に自分のいろいろな機能のあいだに配分するようになる。彼の全活動のうちでどれがより大きい範囲を占め、どれがより小さい範囲を占めるかは、目ざす有用効果の達成のために克服しなければならない困難の大小によって定まる。経験は彼にそれを教える。

 こうした「ロビンソンの労働」とは、分業制によらず、また交換を前提としない生活の必要に応じた純粋に個人的な労働ということになる。冒頭で見た共産主義社会では、こうした「ロビンソンの労働」の規定が個人的でなく、社会的に再現されるという。

その生産物の一部分は再び生産手段として役だつ。それは相変わらず社会的である。しかし、もう一つの部分は結合体成員によって生活手段として消費される。したがって、それはかれらのあいだに分配されなければならない。この分配の仕方は、社会的生産有機体そのものの特殊な種類と、これに対応する生産者たちの歴史的発展度とにつれて、変化するであろう。

 共産主義社会にあっても、再生産は行なわれる。従って、再生産問題を扱った第二巻で分析に用いられた生産手段生産部門(部門Ⅰ)と消費手段生産部門(部門Ⅱ)の区別は共産主義社会にも基本的に妥当するだろう。

彼(ロビンソン)の財産目録のうちには、彼がもっている使用対象や、それらの生産に必要ないろいろな作業や、最後にこれらのいろいろな生産物の一定量が彼に平均的に費やさせる労働時間の一覧表が含まれている。ロビンソンと彼の自製の富をなしている諸物とのあいだのいっさいの関係はここではまったく簡単明瞭(である)。

 商品生産をしないロビンソンが実際に財産目録をつけたとすれば、このように労働時間を軸とした一覧表となったであろう。さしあたり彼の生産物はすべて自家消費のためのものであるが、共産主義的生産においては社会成員への分配が予定される。
 その際、マルクスは「商品生産の場合と対比してみるために、ここでは、各生産者の手にはいる生活手段の分けまえは各自の労働時間によって規定されているものと前提しよう」として、労働時間を基準とする分配方法を仮説的に提示している。

労働時間の社会的に計画的な配分は、いろいろな欲望にたいするいろいろな労働機能の正しい割合を規制する。他面では、労働時間は、同時に、共同労働への生産者の個人的参加の尺度として役だち、したがってまた共同生産物中の個人的に消費されうる部分における生産者の個人的な分け前の尺度として役だつ。人々がかれらの労働や労働生産物にたいしてもつ社会的関係は、ここでは生産においても分配においてもやはり透明で単純である。

 このように、マルクスは労働時間を直接に基準とする生産・分配の仕組みを構想していた。つまりマルクスの計画経済は「労働時間の社会的に計画的な配分」を軸とするものであり、後のソ連が実行したような経済開発計画のようなものではなかったのである。
 最終的にマルクスは、労働時間が表象された一種の引換給付券的な有価証券である労働証明書の制度を提案しているのであるが、その実際的な問題点については別連載『共産論』中の記事で触れてあるので、ここでは割愛する。

およそ、現実世界の宗教的な反射は、実践的な日常生活の諸関係が人間にとって相互間および対自然のいつでも透明な合理的関係を表わすようになったときに、はじめて消滅しうる。社会的生活過程の、すなわち物質的生産過程の姿は、それが自由に社会化された人間の所産として人間の意識的計画的な制御のもとにおかれたとき、はじめてその神秘のヴェールを脱ぎ捨てるのである。

 ロビンソンの労働や共産主義的分配関係に関する言述で繰り返されていたように、マルクスは人間と諸物の関係が単純で透明なものになることが、物神崇拝的な認識から自由になる道であると考えていた。ロビンソン的自給自足はその究極であるが、「物質的生産過程を、自由に社会化された人間の所産として人間の意識的計画的な制御におく」共産主義的計画経済も、そうした単純化・透明化を社会的な次元で達成する一つの方法として把握されている。

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