第二部 冷戦と反共ファシズム
3:反共国家南ベトナム
反共ファシズムは、冷戦時代、世界各地に拡散したが、中でも数奇な存在だったのは、ベトナムに現われた反共国家・南ベトナム(正式名称は「ベトナム共和国」だが、本稿では便宜上通称の「南ベトナム」と表記)である。
ベトナムは、第一次インドシナ戦争の結果、1954年のジュネーブ休戦協定により、北緯17度線を境に、社会主義の北ベトナム(正式名称は「ベトナム民主共和国」だが、本稿では便宜上通称の「北ベトナム」と表記)と南ベトナムに分断されることになった。
このうち、南ベトナムの前身は、北ベトナムの支配勢力であった共産党に反対する勢力が旧阮朝最後の皇帝バオ・ダイを元首に担いで49年に発足させた親仏派の「ベトナム国」であった。従って、それは初めから反共国家であった。
しかし、ベトナム国はジュネーブ協定後、最大後ろ盾のフランスが撤退し弱体化したことから、インドシナ半島への共産主義勢力の拡散を懸念するアメリカのいわゆる「ドミノ理論」を受け、親米派でベトナム国初代首相でもあったゴ・ディン・ジエムが55年にバオ・ダイを追放して自ら大統領に就任し、改めてベトナム共和国として再編した。
ジエムは、旧阮朝官僚として台頭したカトリック教徒であった。強固な反共主義者であった彼はアメリカの支援のもとに、北ベトナムと対峙する反共体制を短期間で作り上げた。その手法は政治警察を使った激しい弾圧であったが、それにとどまらず、彼は独自の支配政党を立ち上げた。
それは正式には「人格主義労働革命党」(通称カン・ラオ党)と称され、表向きはジエムの弟で大統領顧問として絶大の権威を持ったゴ・ディン・ヌーが創始したとされる「人格尊厳論」をイデオロギーとした。
この党は左派労働者政党のような名称を持つが、これはナチが「民族社会主義労働者党」を称したのと同様、標榜上の労働者政党に過ぎず、実態はフランスのファッショ的なカトリック思想家エマニュエル・ムーニエの影響を受けた反共政党であった。しかも、末端まで組織化されたその機能は、明らかにジエム兄弟独裁を支える大衆動員にあった。
このようなカン・ラオ党を通じたジエム体制はベトナム版真正ファシズムと言ってよいものであったので、後ろ盾のアメリカにとっても、次第に疎ましいものとなり始めた。特にアメリカにリベラル派ケネディ政権が発足すると、その関係は微妙なものとなる。
当初こそ、ケネディ政権は北ベトナムの連携武装革命組織として結成された南ベトナム解放民族戦線(通称べトコン)を壊滅させるべく、ジエム政権への軍事援助を強化した。反人道的・環境破壊的軍事作戦として悪名高い枯葉剤散布作戦は、ベトコンが潜むジャングルを破壊するため、ジエム政権がアメリカに提案し、時のケネディ政権が開始したものであった。
しかし、63年、ジエム体制に反対する仏教徒の抗議運動が激化すると、政権は戒厳令を布告して、武力鎮圧を図った。僧侶の抗議焼身自殺が報道され、ジエム政権への国際的批判も渦巻く中、アメリカは南ベトナム軍内の反ジエム派を動かし、クーデターを誘発した。この軍事クーデターの渦中、ジエム兄弟は殺害され、ジエム体制はあっけなく終焉した。
このクーデターを契機に、南ベトナムは軍部主導体制に移行する。軍部内の対立に起因する政情不安の後、65年の新たな軍事クーデターで実権を握ったグエン・バン・チュー将軍は67年以降、形ばかりの民政移管によって大統領に就任し、75年のサイゴン陥落直前に辞任・亡命するまで強権的な体制を維持する。
チュー体制も反共主義で、体制の翼賛政治組織として「国家社会民主主義戦線」を結成したが、これは多数の政党の寄せ集めに過ぎず、この体制はベトナム内戦に対応する一種の戦時体制であり、その本質はせいぜい擬似ファシズムであった。
こうして、南ベトナムは当初の真正ファシズムから軍部主導の擬似ファシズムへと転換された末に、結局ベトナム戦争の敗者となり、北ベトナムにより吸収・滅亡したのである。アメリカの世界戦略に沿って、反共のためだけに存在した悲劇の親米分断国家であった。