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戦後ファシズム史(連載第9回)

2015-12-10 | 〆戦後ファシズム史

第二部 冷戦と反共ファシズム

1:アルゼンチンのペロニスモ
 強力な独裁的指導者を戴くファシスト政党を通じた真正ファシズムは基本的には戦前型のファシズムであり、スペインやポルトガルのようにファシズム体制が戦後の冷戦時代まで延命された場合にあっても、それは戦前ファシズムの持ち越しにすぎなかった。
 そうした中で、1946年に成立したアルゼンチンのペロン政権は、戦後に戦前型ファシズムが改めて誕生した例外事象であった。後にペロニスモとして知られるようになるこの体制の指導者フアン・ペロンは職業軍人の出身であり、戦時中に軍人政治家として台頭し、労働福祉長官から副大統領を歴任した。
 軍事史を専攻する理論派将校であった彼は戦前、イタリア駐在武官を務めた際に、ムッソリーニのファシズムに強い影響と感化を受けて帰国、特に労働福祉長官在任中には、労使協同型の全体主義的な労働政策の遂行で手腕を発揮した。
 戦時中のアルゼンチンは標榜上の中立国であったが、ペロン自身は思想的に共鳴するファシズム枢軸同盟側の支持者であり、大戦末期の44年に副大統領として事実上の最高実力者となると、枢軸国寄り姿勢が鮮明となった。
 こうしたことから、当然にも戦後はアメリカから敵視され、アメリカが後援する軍事クーデターで一時身柄を拘束されるも、すでに人気政治家となっていた彼を支持する大衆の声に後押しされ、釈放、政界復帰を果たしたのだった。
 そして、46年の大統領選(間接選挙)で当選し、一気に頂点に立った。政権に就いたペロンは、与党として正義党を結党し、権力基盤とした。ただし、他政党を禁止することはなく、表向き多党制は維持されたが、野党は抑圧を免れなかった。
 大統領としての彼の政策は、反共を基軸に、大衆煽動的手法を駆使しながら、労使協同型の労働者保護、外資国有化や貿易の国家統制などの経済管理を強化する戦前型ファシズムの路線に即したある意味では守旧的なものであり、まさに戦前型ファシズムの戦後復刻であった。
 その証しとして、ペロン政権は戦犯追及を逃れてきた旧ナチス幹部を組織的に多数庇護し、アルゼンチンをナチス戦犯の一大避難拠点としたが、これはその後、南米各国に成立する反共独裁政権がナチス戦犯を同様にかくまう悪しき先例となった。
 ペロンは51年の大統領選で野党への露骨な選挙干渉により、再選を果たしたが、ペロン政権が長続きすることはなく、55年の軍事クーデターであっけなく崩壊したのである。このことは、ペロンが軍部を掌握し切れていなかったことを示す。その点では、後にもう一度返り咲いたことも含め、ブラジル・ファシズムの指導者ヴァルガスと類似していた。
 55年クーデター後、正義党は禁止されるが、ペロン支持勢力は極右の分派を出しながらも、総体としては左派色を強めていく。このような展開は、ペロンなきペロニスモがファシズムとしては事実上終焉したことを意味していたであろう。
 ペロン派と反ペロン派の党争はその後もアルゼンチン政治の不安定要因となり、73年にはフランコ体制下のスペインに亡命していた高齢のペロンが呼び戻され、大統領選で再び返り咲きを果たしたペロンのカリスマ性に政情安定化が期待されたのだったが、老ペロンは翌年急死し、ペロン体制の再現はならなかった。
 この後のアルゼンチンは大統領職を継いだ副大統領イサベル未亡人の短命政権を経て、76年の軍事クーデターにより擬似ファシズムの性格を持つ反共軍事政権が成立し、左翼の大量殺戮に象徴される「汚い戦争」の暗黒時代に突入するが、これについては改めて後述する。

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