ザ・コミュニスト

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戦後ファシズム史(連載第28回)

2016-03-29 | 〆戦後ファシズム史

第三部 不真正ファシズムの展開

5‐2:韓国の開発ファシズム(続)
 1979年の朴正煕大統領暗殺事件は、韓国にとって60年の李承晩政権打倒以来、およそ二十年ぶりにめぐってきた民主化のチャンスであった。しかし、これに対して、全斗煥将軍ら朴に忠実な右派軍人グループが介入する。
 全斗煥は朴体制下で中央情報部と並ぶ政治弾圧機関であった国軍保安司令部の司令官職にあったが、この立場を利用して、陸軍参謀総長ら軍上層部を拘束または退役に追い込み、実権を掌握した。この過程は「粛軍クーデター」と称されるが、実態は下克上的クーデターであった。
 軍の実権を握った全は翌年、朴暗殺事件後に敷かれていた非常戒厳令を拡大し、民主化運動を力で阻止した。この過程で、光州では戒厳軍が学生デモを武力鎮圧し、200人以上が死亡または行方不明となる事件が発生した。
 一方で、社会的不良分子の一掃を名目に数万人を検挙し、軍内に設置された特別教育隊で矯正訓練を受けさせ、肉体的・精神的な拷問に等しい虐待を組織的に行なうなど、朴政権でも見られなかったナチスばりの社会浄化政策が断行された。
 こうして民主化のチャンスはまたしても軍部によって奪われ、80年8月には全が大統領に就任、朴時代の憲法を修正したうえで、翌81年以降、全が改めて大統領に就任して全政権が正式に発足する。
 新憲法では大統領権限が若干制限され、再選禁止規定も盛り込まれるなどの修正が加えられたものの、朴政権下での政治弾圧において猛威を振るった反共法は国家保安法に統合・拡張されたほか、言論統制法も整備され、ある面では朴政権のファッショ性をいっそう強化する面も見られた。
 政治的には、新たな政権与党として民主正義党が組織された。朴時代の与党民主共和党に比べると「正義」のイデオロギー色が増した観はあるが、包括的右派政党としての機能の点では大差ないものであった。経済面でも、朴時代の末期にマイナス成長に転じていた経済を改善させるため、開発政策をより大統領主導で推進したため、全政権は基本的には開発ファシズム体制の延長という性格を帯びていた。
 ただ、全が朴と決定的に違ったのは、憲法の大統領再選禁止規定を遵守したことであった。80年憲法では任期七年とされていたが、全はこの規定に従い、88年に大統領を退任したのである。これは独立・建国以来初めて大統領が任期満了をもって平穏に退任した例であり、以後任期五年に短縮された今日までこの先例が踏襲されているのは、民主化を準備した全政権の「功績」と言える。
 その伏線は前年6月に全の最有力後継候補だった同期軍人出身の盧泰愚が大統領直接選挙制への(再)改憲を含む八項目から成る「民主化宣言」を発したことにあった。これには学生らの民主化要求デモの高まりと88年の開催が決定していたソウル五輪という内外事情が作用していたと考えられる。
 87年12月の大統領選挙では野党陣営の分裂にも助けられて盧泰愚が比較多数の得票で当選を果たした。盧政権は軍出身ながら漸進的な民主化移行政権の性格を持ち、続く93年の野党金永三政権の発足をもって朴体制以来の開発ファシズムは正式に終焉したのである。
 金永三政権下では、全・盧の両氏が80年の粛軍クーデターや光州事件に関連し、首謀者として訴追され、有罪判決を受け、開発ファシズムに対する一定の清算がなされた。なお、両氏は不正蓄財についても法的追及を受けたが、これは開発ファシズムに伴いがちな利権汚職の一面を示している。

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