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貨幣経済史黒書(連載第30回)

2019-12-01 | 〆貨幣経済史黒書

File29:ソ連の「不足経済」

 1917年ロシア革命後のソヴィエト連邦(ソ連)は、当時としては世界初の実験であった中央計画経済システムを導入し、世界市場からは退出したため、主要国の中で1929年大恐慌の影響を免れた数少ない存在となった。その後も、ソ連の計画経済下では恐慌やハイパーインフレのような資本主義的事象の発生は防がれていた。
 独裁者スターリンの時代に開始された経済計画を通じた工業開発は、第二次世界大戦時の対独戦争で大きな代償を払いながらも、戦後復興に成功し、1953年のスターリンの死をはさんで、1960年代初頭頃までは、高い経済成長―言わば、ソ連における高度経済成長―を示した。
 こうした点だけみれば、ソ連の計画経済システムもそう悪いものではなかったように思えるが、実のところ、ソ連型計画経済では、消費財の供給が停滞し、物不足が恒常化するという欠陥現象が起きており、識者はこれを「不足経済」(shortage ecomomy)と呼んでいた。
 実際、資本主義社会の学校教科書は、しばしばソ連やそのシステムを模倣した東欧同盟諸国の国営商店の棚が空であったり、少ない商品を早い者順で入手しようと、朝一番で店の前に並ぶ主婦たちの長い行列ができている写真を半ば揶揄的に掲載し、社会主義システムの欠陥として教え込むのが当時の定番となっていた。
 こうした「不足経済」は、大衆が飢餓に陥るような全般的窮乏とは異なり、いちおう人間として最低限度の生活を営むだけの消費経済は運営されているが、物品が手に入りにくく、まさに行列が日常の光景となるような事態を招くものであった。このような事象が発生する要因としては、過少生産に陥っているか、流通に欠陥があるかのいずれかであるが、実際はその両方だったようである。
 中央計画経済は需要と供給を人為的に制御することで、資本主義自由市場に付きまとう景気循環の不安定さを回避するという狙いから導入されたにもかかわらず、需給関係が見合わない過少生産となったのは、貨幣経済を廃することなく、消費財の価格を政府が低く統制していたことによる。
 資本主義市場でも同様であるが、低価格商品は人気が集まり、品切れとなりやすい。需要に供給が追いつかない状況である。多くの商品が統制された低価格で販売されれば、当然相対的な過少生産となり、品薄が恒常化するのは見やすい道理である。
 それに加えて、中央計画経済の支柱であった国営生産企業の汚職により、賄賂と引き換えで生産物の横流しが蔓延し、闇市場が広がっていたことである。闇市場では、公定価格より割高ながら必要な物資が入手できるため、非公式の地下経済としてソ連の全期間を通じて闇市場が存在していた。
 このようにして、安定性という点では利点のあった中央計画経済システムは、常に需要が供給を凌駕するという相対的な過少生産を構造化してしまったと言える。結果として、消費者はだぶついた所得の多くを貯蓄に回すことになった。
 この状況は、資本主義におけるデフレーションと似ており、不足経済とは疑似的なデフレーションが常態化する事態とも言えるかもしれない。言わば、物はあるが買うための金がないのが資本主義的デフレーションであるとすれば、金はあるが買うべき物がないのが社会主義的デフレーションである。
 こうした不足経済は、中途半端な市場経済モデルを導入を試みたソ連末期の経済改革でいっそう悪化した。地下経済の一部が顕在化し、半市場が形成されたことで、人間的な最低限度の生活はまかなえていた計画経済が崩壊し始め、ついには戦時のような配給制の導入に踏み切らざるを得ないほどの経済危機を招いた。
 同時期、資本主義の日本もバブル崩壊による「敗戦」に直面しつつあったが、1990年代初頭のソ連もある種の「敗戦」の状態にあり、これがソ連そのものの解体という歴史的な出来事を招来する一つの要因ともなった。しかし、それで終わらず、その後、ソ連という毛皮を脱いだ新生ロシアは急激な資本主義化による大混乱を経験する。

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