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近代革命の社会力学(連載第52回)

2019-12-17 | 〆近代革命の社会力学

七 第二次欧州連続革命:諸国民の春

(5)ハンガリー三月革命
 オーストリア三月革命は、当時オーストリアの支配下にあったハンガリーにおける革命とも密接に連動しており、両者は重層的な関係にある。時系列的には、ハンガリー革命がわずかに先行した。ただし、ハンガリー革命はオーストリア本国の革命とは異なり、自由主義革命としてよりも独立革命としての性格が濃厚であった。
 そのため、カリスマ的な革命指導者を欠いたオーストリアとは対照的に、ハンガリー革命では民族派議員コシュート・ラヨシュの役割が際立った。民主的な憲法の制定と諸民族の友愛を訴えたラヨシュの1848年3月の議会演説は反響を呼び、首都ペシュトで、「十二か条の要求」を掲げた大衆デモに発展したことが革命の初動である。
 この十二か条筆頭には「言論の自由」の要求が掲げられていたけれども、「ハンガリー兵による国土防衛、外国兵の撤退」のように独立につながる要求が包含されていたことは、オーストリア本国のみならず、ハンガリー域内に包摂されていた他民族の感情を損ねることになった。
 コシュート演説では諸民族の友愛が謳われていたとはいえ、ハンガリー革命の主眼がハンガリー人の独立に置かれていることは否定できず、このことが革命の成就にとっては障害となる。オーストリア本国はこうした民族対立を利用して、革命の鎮圧を図ることができたからである。
 オーストリア本国でも革命に同時直面したフェルディナント1世は、ハンガリーに対しても譲歩し、いったんは新たな自治政府の樹立に同意した。コシュートも財務大臣として入閣し、民主的改革を主導した。しかし、民族間対立を抑制できない状況を見て取ったフェルディナントはクロアチア人将軍ヨシップ・イェラチッチを派遣し、ハンガリー自治政府の解体を狙う。
 その結果、自治政府は瓦解したが、コシュートは東部の都市デブレツェンを拠点にハンガリー革命軍を組織して抵抗した。革命軍は一度はイェラチッチの鎮圧軍を破り、ウィーンの10月蜂起に呼応してウィーンに進撃する構えを見せるも、結局は敗退した。
 連携しようとしていたオーストリア三月革命も終息に向かう中、1849年4月、コシュートは改めてデブレツェンにてハンガリー独立・共和国樹立宣言を発し、革命を完遂する決意を示した。
 この時、オーストリア皇帝はフランツ・ヨーゼフ1世に交代したばかりで、まだ不安定であったため、反革命同盟国のロシアに援軍を求めた。こうして、ハンガリー革命軍はロシア軍と対決することとなった。
 この時、ハンガリー革命軍の指揮官として活躍したヨゼフ・ベムは元来ポーランド人で、第一次欧州連続革命の余波として1830年11月に起きたポーランド11月蜂起でも反乱軍側で活躍したベテランであった。しかし、彼も圧倒的なロシア軍には抵抗し切れず、最終的にオスマン帝国に敗走・亡命してイスラームに改宗、シリアのアレッポ総督の要職に就くという数奇な生涯を送った。
 粘り強く抵抗したハンガリー革命軍であったが、1849年8月にロシア軍に降伏したことをもって、ハンガリー革命も終息に向かった。オーストリアはハンガリー独立を決して容認しなかったが、1867年のオーストリア‐ハンガリー二重帝国の樹立に際しては、パートナー国ハンガリーの限定的な自治を承認したのである。

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