第1章 共産主義と法
(1)共産される法
本連載では、「共産法」という語を用いるが、この語には「共産主義社会の法」の略語という形式的な意義のほかに、「共に産する法」という実質的な意義もある。つまり、共産主義社会にあっては、物質的な生産のみならず、法のような精神的な生産も協働的に行なわれることが含意されている。
その点、資本主義社会におけるブルジョワ法は通常、国民代表機関を標榜する議会で制定され、政府によって執行される。このようなプロセスをもって民主主義と称されているが、議員の立法能力には限界があるため、実質上は法の制定も政府官僚が仕切っていることは公然の秘密である。
そして、資本主義政府とは資本の利益確保を中心に動く利益共同体であるからして、そのような政府の手で制定される法も直接間接に資本の利益の擁護を第一の目的とし、市民の利益の擁護はせいぜい二次的な目的か、最悪は無視される。
このような「法」は社会的に共有される規範=社会規範というより、国家が管理する規範=国家規範の性格を有する。その意味で、ブルジョワ法は市民にとっては疎遠な、上から強制される規則であるから、それは時として市民にとって敵対的であり、違背への欲望を掻き立てる障害物のように感じられることさえあるだろう。
これに対して、共産法は民衆が自分たちの住む社会の秩序を維持し、全市民の利益を公平に擁護するために、協働して制定する規範である。それは民衆が自主的に定め、共同管理する規範であり、まさしく「社会の」規範である。
『共産論』でも示したとおり、共産主義社会では、民衆代表機関である民衆会議が立法機能を持ち、法を制定し、かつ自らがその下部機関を通じて法を適用する体制が採られるが、このプロセスを法理的にとらえ直せば、法の共産過程ということになる。
ちなみに、法の適用は、ブルジョワ国家法ではまさしく国家が制定法を上から発動・強制する過程となるが、共産法における法の適用は、それ自体も個別的な法の運用の累積を通じた法の共産過程の一内容となる。
こうした特性を持つ共産法は、ある意味では社会的な慣習の集積である慣習法に近似することになるが、序言でも指摘したとおり、共産主義社会は制定法を持たないアナーキーな社会ではなく、制定法によって統治される社会である。
ただし、制定法の意義は相対化される。すなわち、制定法はコアな法的原則の集成となり、細目的な事柄は政策ガイドラインのような緩い規範性を持った指針によって柔軟に規律されるであろう。その限りでは、法律絶対の「法治主義」という観念は共産主義社会には妥当しない。