ザ・コミュニスト

連載論文&時評ブログ 

アメリカン・ファシズム足踏み

2018-11-08 | 時評

現在、アメリカ合衆国は一つの歴史的な社会実験の渦中にある。それは、古典的な三権分立テーゼに忠実な現行合衆国憲法下で、どこまで全体主義ファシズムが可能なのかどうかという壮大な二律背反的実験である。

先般実施されたいわゆる中間選挙の結果次第では、本稿タイトルも「アメリカン・ファシズム着々」となるはずであったところ、結果は、上院で与党・共和党が議席を伸ばして多数派を維持するも、下院では野党・民主党が多数派を奪回するといういわゆる「ねじれ国会」の見込みとなったため、「着々」とは行かなくなった。

本来、典型的なファシズムを完成させるためには、国家指導者への徹底した権力集中と、それを可能とする翼賛的政治マシンの役割を果たす政治組織(政党の形でなくともよい)とを必要とする。その点、トランプ大統領は就任以来、自身の主張によれば憲法修正すら可能とする万能の大統領令を多発して、議会を迂回した政策執行を常套としてきた。

政治マシンに関しても、150年以上の歴史を持つ愛称Grand Old Partyの共和党をほぼ乗っ取る形で、大統領の意のままに動く事実上の「トランプ党」に変質させることに成功しつつある。元来、アメリカの政党は組織力が弱く、政治クラブ的な性格が強いため、与党側から内的に大統領権力を牽制することが難しい構造にあることも、追い風である。

従来、オバマ前政権下で起きていた共和党の上下両院制覇の結果が引き継がれていたため、トランプ政権下最初の今般中間選挙で共和党が連勝すれば、アメリカン・ファシズムは「着々」となるはずであった。しかし、そうはならなかった。「ねじれ」という微妙な結果は、アメリカ有権者がトランプ政権におずおずとながら「待った」をかけたことを意味している。

とはいえ、「アメリカン・ファシズム阻止」とも言い切れない。「ねじれ」の結果、上院は共和党が引き続き握る限り、下院を制した民主党にできることは限られている。その点、アメリカ下院には優越権がなく、伝家の宝刀たる大統領弾劾に関しても訴追権しかないなど、弾劾裁判権を保持する上院の方が権限が強いことはマイナスとなる。

表向き「勝利」宣言を発したトランプ政権が、「ねじれ国会」体制という現実の中でどう出るかはまだわからない。現行憲法上、大統領に議会解散権はないため、意に沿わない下院を解散することは憲法上できないはずだが、大統領令で憲法修正も可能とする大統領の主張によれば、大統領令によって憲法を修正したうえ、下院を解散・封鎖するという強権措置も視野に入れているのかもしれない。

いずれにせよ、次期大統領選挙年である2020年に向け、"President Trump"が"Führer Trump"へと飛躍し、そのまま再選へとつながるのか、それとも"President Trump"のまま凋み、一期で去るのかの分かれ道であることに変わりない。

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共産教育論(連載第13回)

2018-11-06 | 〆共産教育論

Ⅲ 基礎教育課程

(2)健障統合教育
 共産教育における基礎教育課程は、既存教育制度とは異なり、健常者教育と障碍者教育とを分離しない統合教育を基本とする。共産主義社会は、障碍の有無で人の社会的立場を分けることのない対等な社会参加を軸とするものだからである。
 従って、満6歳から満18歳までの13か年一貫制教育という基本構造は、障碍者教育でも共通である。とりわけ、視聴覚の感覚障碍や知的障碍を伴わない単一的身体障碍児の場合は非障碍児と完全に同等の扱いとなる。
 こうした高度な統合教育は、基礎教育課程が通信制を原則とすること、また13か年を標準年限としつつも、学年制を採らず、それ以上の期間をかけて自分のペースで学べるという柔軟構造によって担保される。
 柔軟な統合教育を効果的に実施するためにも、基礎教育課程就学前に、すべての就学予定児を対象に、その時点での心身の状態に関する総合判定を実施、各自にどのような教育的対応が適するかを検査し、確定する。このような判定検査は、必要に応じて、就学後も随時実施する。
 その結果、感覚障碍児や知的障碍児、さらには複合的障碍児の場合は、それぞれの障碍を克服するべく、治療を兼ねた特別教育―療育―を必要とするので、非障碍児とは別途、特別な療育科目が用意される。これは個別性が強いので、少人数の集合教育及び訪問教育の双方を通じて、専門的な免許と技能を備えた教員によって提供される。
 また知的障碍児の場合は、基礎教育課程で提供される科目の多くを知力向上のための療育科目に置き換える必要があり、この限りでは、統合教育に特例を認めることになるが、特別支援学校のような形で完全に普通教育から分離してしまうわけではなく、あくまでも基礎教育課程の中の特例コースとして用意されるものである。
 従って、療育の結果、知力が通常レベルにまで発達し得た場合には、その時点で通常科目の学習へ切り替えるなどの柔軟な対応も可能となる。また、非障碍児と障碍児が相互の理解と尊重を深めるために、基礎教育課程の早い段階から、反差別教育の一環として、交流授業が必修的に取り入れられる。

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共産教育論(連載第12回)

2018-11-05 | 〆共産教育論

Ⅲ 基礎教育課程

(1)基礎教育課程の概要
 義務保育課程を修了すると、満6歳から基礎教育課程へ就学する。両課程間には入学試験その他による選抜プロセスは一切介在せず、全員一律の自動的な就学である。しかし、満6歳到達時を待って就学するため、一律一斉の入学とはならない。
 基礎教育課程はいわゆる義務教育に相当するもので、公教育の主軸を成すが、伝統的な義務教育が通常、数年程度に限定されているのとは異なり、満6歳から満18歳まで通算13か年に及ぶ点で長期にわたる。これも貨幣経済が廃される共産主義社会では、義無教育サービスに要する金銭コストを考慮する必要がないからである。
 反面、私立の基礎教育課程は認められず、すべて公立である。具体的には、市町村より一段広域の地域圏(郡)が一括して提供する公教育サービスとなる。私立学校は公教育の不備を補充する歴史的役割を負ってきたが、公教育が充実する共産主義社会ではそうした役割を終了するからである。
 共産教育における基礎教育課程の最大の特色は、通信制原則である。すなわち、体育など通信制では提供できない一部科目を除き、インターネットを活用した通信教材を用いて、自宅または指定自習室で学ぶ方式となる。
 こうした自由な方式を採る結果として、基礎教育課程には明確な学年や学級も存在しない。ただし、全13か年は一学齢ごとに区切られた13段階のステップで構成されるが、13か年はあくまでも標準修了年限であって、13年以上かけて修了することもできる柔軟な構成である。
 ただし、各ステップには、各科目ごとに定められた回数の義務的課題提出があり、これをすべて提出しない限り後続ステップには進めないが、所要点数による落第処分はなく、提出し、担当教員の審査を受けることが即進級条件となる。そのようにして全13ステップを修了すると、基礎教育課程修了認定証が発行される。 
 その他、共産教育における基礎教育課程の内容的な特色として、その中期以降に職業教育が必修で導入されることがある。この点で、普通校と職業校とを分離し、早期に人生経路を分けてしまう学歴階級制的な教育システムとは大きく異なる。

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貨幣経済史黒書(連載第20回)

2018-11-04 | 〆貨幣経済史黒書

File19:19世紀末大不況

 1873年欧米恐慌は、それまでの周期的な恐慌と異なり、いったん収束したように見えながら、余波が尾を引く形で世紀末にかけて長期的に遷延する大不況を引き起こす契機となった点で画期的であった。この大不況は、その内部に各国での局所的な恐慌を伴いつつ、1896‐97年頃まで20年近くにわたって続いたからである。
 なお、見方によっては、1929年の史上最も著名な「世界大恐慌」まで大きくスパンを取る解釈もあるが、第一次世界大戦をもまたぐこの理解はいささか拡大しすぎなきらいがあるので、ここでは「19世紀末大不況」と限局した把握にとどめる。
 このような大不況の要因となったことの中心に、1870年代に欧米各国が続々と導入した金本位制があった。反面、長く基軸通貨だった銀は浚渫・精錬技術の進歩によって増産されたが、同時に価格は低下した。しかし、西部に同鉱山を抱えるアメリカは政府に毎年銀購入を義務づける銀購入法が制定し、銀価格の維持を狙った。
 ところで、アメリカでは1873年恐慌が収束した後、1880年代に入ると欧州向け輸出が急伸した結果、とりわけフランスからの金の流出が増大し、フランス銀行の金準備高が急減する危機に見舞われる。1882年にはパリ証券取引所での暴落を契機にフランスは史上最悪の恐慌に突入し、その余波は10年にもわたり続き、「失われた10年」となった。
 しかし、1880年代は欧米主要資本主義諸国にとっては、いわゆる第二次産業革命による重工業化の伸張期でもあり、鉄鋼生産が倍増するなど経済成長を迎えていた。反面で、穀物価格の崩壊現象があり、これにより各国を保護貿易主義へ向かわせることになった。
 保護貿易主義は当時の国際貿易の中核を担った国際海運業の閉塞を招き、不況の遷延を促進する効果を持つと同時に、政治的にも貿易戦争の摩擦を引き起こしたのである。他方で、外債を利用した国際カルテルが盛んとなり、今日の多国籍企業の前身となるような国際独占企業体の形成が進み、20世紀に向けて独占資本主義体制が現れた。
 この間、アメリカは1873年恐慌を脱して1880年代から景気回復基調に入っていたが、長続きはせず、同年代半ばには企業利益の低下や頼みの鉄道敷設事業の停滞、耐久財の生産減などに直面していたところへ、1893年、再び恐慌が襲う。
 直接の契機は過剰な路線拡大を強行していたフィラデルフィア・アンド・レディング鉄道の経営破綻であった。多くの鉄道会社の破綻が続き、西部を中心に企業15000社、銀行500行の破綻をもたらし、州によっては40パーセントにも達する失業率を結果した1893年恐慌は、この時点ではアメリカ史上最悪とも言えるものとなった。
 時のクリーブランド政権は前出銀購入法の廃止と金本位制の維持を明確にし、西部鉱山も閉鎖された。この間、南北戦争以降に形成されてきていた近代的な中産階級の多くが失業とローン破綻に直面することになった。このように中産階級のつましい生活を直撃するのも、以後の恐慌の特徴となる。
 もう一つ、この大不況はいくつかの新興国に波及したことが特徴である。中でも1850年代に自由主義政権の下で最初の経済成長を遂げたチリは、すでに1857年米欧恐慌の影響を経験していたが、19世紀末大不況の渦中では主産品である銅や米の価格下落で輸出が落ち込み、大量の正貨流出を招いた。さらに、ユーラシア大陸をまたぐ新興国として台頭してきた帝政ロシアも影響をこうむり、大不況の約20年間に三回の大きな景気後退に直面した。
 そうした中、統一間もないドイツだけは不況の中で公共投資を増大させ、工業需要を刺激することで工業生産高を倍増させた。ちなみに資本主義発祥国のイギリスでも1897年頃まで深刻な不況が続くが、その間、巧みな供給調整を実施して、生産効率を上昇させ、工業生産高を相当増大させることに成功しているが、それは労働搾取率の増加という影を伴うものであった。
 19世紀末大不況の特徴は、1870年代以前のように、突発的な恐慌の形態を取らず、エンゲルス言うところの「相対的に長くはっきりしない不況」という形態を取ったことである。このような特徴は貨幣経済が金融システムが国内的にも国際的にも複雑に入り組んでいく20世紀以降の近代的な不況現象の先取りだったとも言える。

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貨幣経済史黒書(連載第19回)

2018-11-03 | 〆貨幣経済史黒書

File18:1873年欧米恐慌

 1857年の米欧恐慌が一段落した後、1873年に恐慌が再発する。これも前回からは16年後、やはり忘れた頃の再発である。その影響は前回恐慌同様、やはり先発資本主義諸国に限局されてはいたが、前回がアメリカ発であったのに対し、今回は欧州発であった点が異なる。その意味では、1873年恐慌は「欧米恐慌」と呼ぶにふさわしかった。
 直接の引き金を引いたのは1873年5月、当時オーストリア帝国の帝都であったウィーンの証券取引所の崩壊である。意外な場所であるが、ウィーン証券取引所はマリア・テレジア女帝の治下でオーストリアが新興国として台頭していた1771年に設立された歴史ある取引所であった。
 このウィーン証取崩壊は最も初期における近代的証券バブル崩壊現象であり、その余波は当時工業化の一途にあったオーストリア国内にとどまらず、誕生したばかりの隣国ドイツ帝国にも及んだ。
 普仏戦争に勝利したドイツは、フランスからの多額の賠償金も元手に、好況に沸いていた。起業が相次ぎ、新銀行の設立、さらにはビスマルク政権による帝国統一通貨・金マルクの導入と金本位制への移行などを通じて近代ドイツの経済的基盤が作られようとしていた矢先の金融危機であった。ドイツにおける新規投機バブルはたちまちにして弾けた。
 他方、海を越えたアメリカでは南北戦争を経て連邦の統一が固まり、改めて鉄道敷設ブームの中、鉄道投資を中心に好況に沸いていた。この頃のアメリカでは、後の投資銀行制度につながる大口事業投資専門の個人銀行が隆盛化し、鉄道会社への投資熱を煽っていた。
 そのような個人投資銀行の一つ、ジェイ・クック銀行が1873年9月に破綻したのをきっかけに、同種銀行の破綻、さらにニューヨーク証券取引所の一時閉鎖という異常事態が続いた。
 これを合図に、当時アメリカにおける主要な労働セクターであった多数の鉄道会社の破産が相次ぎ、失業率が増大した。1877年に、45日間続いた鉄道労働者の一斉ストという民衆蜂起を招いた時、恐慌は政治的な意味合いをも帯びた。
 金融政策の面では、上述のように、ドイツのビスマルク政権が金マルクの導入により金本位制に移行し、銀貨廃止を決めたことを受け、アメリカでも事実上の金本位制への移行を画した貨幣鋳造法が制定されたため、国内の通過流通量が減少し、債務者に打撃を与えていた。このことも、アメリカにおける恐慌を助長した。
 ちなみに、南北戦争後に解放奴隷の生活資金援助を目的に設立されたフリードマン貯蓄銀行も、戦後の投資ブームの中で放漫融資に走り、1874年に経営破綻、貧困層の解放奴隷の黒人層も打撃を受けた。
 1873年恐慌の影響期間は欧米各国で多少異なりながらも、おおむね1879年から1880年代初頭までにはいったん収束を見る。しかし、この恐慌は従来のものとは異なり、単発的でなく、さらに世紀末にかけて向こう20年以上にわたり構造的な不況が持続する大不況を呼ぶことになる。その意味で、1873年恐慌は新たなエポックと言えた。

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犯則と処遇(連載第1回)

2018-11-01 | 犯則と処遇

犯罪はこれを処罰するより防止したほうがよい。
―チェーザレ・ベッカリーア『犯罪と刑罰』

応報の精神が少しでも敬意を受け続ける限り、復讐欲が人々の心に存する限り、応報の害が成文法に浸透している限り、私たちが犯罪防止に歩を進めることはできない。
―カール・メニンガー『刑罰という名の犯罪』

 

前言


 筆者は『共産法の体系』において、刑罰制度を持たない法体系の枠組みを示した(拙稿参照)。この点は、現行法体系と大きく異なる共産主義法体系の中でも特に理解されにくいところかもしれない。
 残酷な刑罰とか死刑といった特定の刑罰の廃止はあり得ても、およそ刑罰制度全般を持たない法体系は、社会体制のいかんを問わずあり得ないのではないか―。そんな疑問も浮上するであろう。その理由として、従来の社会体制には、「犯罪→刑罰」という図式が深く埋め込まれてきたことがある。

 こうした「犯罪→刑罰」という図式を近代的な形で確立したのは、冒頭に引いたベッカリーアの主著『犯罪と刑罰』であった。ベッカリーアは、彼の時代にはまだ西欧でも死刑を頂点とし、恣意的かつ残酷でさえあったアンシャン・レジームの刑罰制度に対して公然と、かつ理論的に異を唱え、罪刑法定主義・証拠裁判主義・刑罰謙抑主義の諸原則を対置したのであった。
 この言わば「ベッカリーア三原則」とは要するに、刑罰制度とそれを運用する手続きである刑事裁判制度を法律と証拠、そして人道によってコントロールしようという構想であって、現代的な刑事司法制度においては、少なくともタテマエ上はほぼ常識化して埋め込まれている。

 ベッカリーアが近代的に確立した「犯罪→刑罰」図式は、それまでまだ復讐の観念が支配していた旧制に代えて、復讐観念を言わばパンドラの箱の中に隠し、より啓蒙的な応報刑の理論に仕上げたものであり、当時としては進歩的な内容を示していた。
 彼が著書に冠した『犯罪と刑罰』(DEI DELITTE E DELLE PENE)という端的なタイトルの「と」(E:イタリア語)という接続詞は決して単なる並列ではなく、「犯罪→刑罰」という応報論図式の端的な表現であったのである。

 もっとも、ベッカリーアは「犯罪→刑罰」図式を絶対化していたわけではなかった。彼は『犯罪と刑罰』の終わりの方で「いかにして犯罪を防止するか」という一章を設け、処罰よりも犯罪防止こそがよりよい法制の目的であるはずだと指摘し、犯罪防止を法(刑罰)の目的とする目的刑論の考え方を示唆している。
 彼はそうした犯罪防止の「最も確実で、しかも同時に最も困難な方法」として教育の完成をあげている。しかし、『犯罪と刑罰』のベッカリーアは一般論としての教育論を超え出ることはなかった。こうしたベッカリーアの未完の論をより具体的に発展させたのは、彼の次の世紀末にようやく現れた教育刑論の潮流であった。

 刑罰を応報ととらえるのでなく、犯罪を犯した人の矯正と社会復帰のための手段ととらえる教育刑論は、ベッカリーアとの関わりでみると、彼の人道主義的な側面に立脚しながら、彼が一般論としてしか指摘していなかった究極的な犯罪防止策としての教育の完成をより具体的に刑罰論の枠内でとらえようとしたものであったと理解することもできる。
 こうした基本的な方向性は次の20世紀になると世界的な潮流となり、教育目的を持たない死刑の廃止の反面として、刑務所の環境整備と矯正処遇技術の開発、社会復帰のための更生保護の制度などが打ち出されていくようになった。

 しかし、こうした教育刑論もやがて頭打ちとなり、近年は「犯罪抑止」や「被害者感情」を高調することで、刑罰制度の振り子を再び応報の方向に振り向けようとする反動的な動きも高まっている。
 教育刑論は刑罰から応報的要素を何とか払拭し、パンドラの箱をしっかり密閉しようと努めてきたが、それとて「犯罪→刑罰」図式を完全に脱却したわけではない以上―その限りでは教育刑論も相対的な応報刑論に包含されている―、果たして箱のわずかな隙間からあの復讐の要素が漏れ出すことを防ぎ切れなかったのである。

 やはり冒頭で引いたアメリカの精神医学者カール・メニンガーが言ったように、刑罰と更生(教育)とは本来、不倶戴天の敵同士なのであって、両者はあれかこれかの二者択一でしかあり得ない。もし刑罰をとるならば、メニンガーが刺激的な著書のタイトルに冠したように、刑罰とは犯罪を犯した人に対して加えられる「刑罰という名の犯罪」にほかならないのである。
 刑罰という方法で犯罪を犯した人に制裁を加えることは、その者の更生に役立たないばかりか、かえって更生の妨げにさえなる。そのため、刑務所という環境は言わば「犯罪再生産工場」と化している。刑務所出所者の再犯率の高さはその象徴である。

 一方、ロシア革命は刑罰制度に代えて新たな社会防衛のための処分の制度を生み出したが、これは社会の危険分子の防除という政治的な目的に悪用され、基本的人権の侵害が多発した。これを反省した後のソ連では結局、古典的な刑罰制度が事実上復活してしまった。

 このような教育刑主義の限界と社会防衛主義の暴走の狭間で、「犯罪→刑罰」図式を転換し、犯罪を「罪」という道義的な観念から切り離し、「犯則」と見立てたうえ、これに対して刑罰ではなく、犯則行為者の矯正・更生に資する効果的な処遇を与える新たな枠組みを追求するのが、『犯則と処遇』の目的である。そのため、本連載はベッカリーアの著書通行本に準じて、前言と40余りの章で構成される。

 なお、本連載は元来、ベッカリーアの著書表題をもじり、『犯罪と非処罰』と題して公開していたが、上述のような趣旨から、また『共産法の体系』新訂版の内容を踏まえつつ、より明瞭に『犯則と処遇』と改題したうえ、再掲する。これに伴い、旧題連載に所要の改訂や新たな章の追加または不要な章の削除を施したが、全体の構成や基軸的な記述に大々的な変更はない。

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