ザ・コミュニスト

連載論文&時評ブログ 

近代革命の社会力学(連載第50回)

2019-12-10 | 〆近代革命の社会力学

七 第二次欧州連続革命:諸国民の春

(3)フランス二月革命

〈3‐4〉反動化から第二帝政へ
 1848年4月の制憲議会選挙の結果、反社会主義派の圧勝となったことで、社会主義派の命運は決まったも同然であった。同派の指導者ルイ・ブランは当選したが、彼が指導していた「労働者のための政府委員会」は改組のうえ、担当閣僚も交代となった。
 こうした露骨な排除に対して、社会主義派は5月、大規模なデモ行進を行い、社会主義派のもう一人の指導者オーギュスト・ブランキを中心に議場に乱入して議会の封鎖を企てたが、失敗し、ブランキらは逮捕された。
 この後、議会乱入事件に労働者が関わった「国立作業場」の閉鎖を新政府が決めると、労働者はこれに反対する請願を敢行するが、政府に拒否された。これに抗議して、労働者はバリケードを築き、武装蜂起の態勢に入った。こうして、いわゆる「六月蜂起」と呼ばれる新たな革命の段階を迎える。
 これが成功していれば、近代史上初のプロレタリア革命に発展した可能性があるが、実のところ、政府側はこうした民衆蜂起を想定していたのだった。ある意味では、政府側の挑発作戦であり、「作られた革命」であった。民衆側にしてみれば、選挙結果に動揺し、先を急ぎすぎて罠にはまったのである。
 政府側はルイ・カヴェニャック将軍を全権行政長官に任命し、戒厳令下、徹底的かつ体系的な鎮圧作戦を展開した。その結果、四日間の戦闘を経て民衆蜂起は鎮圧された。民衆側死者は3000人に上る苛烈な作戦であり、事後にも徹底した弾圧検挙が行われ、関与者はかつてカヴェニャックが征服に関わった北アフリカのアルジェリアへ追放処分とされた。ブランも英国への亡命を強いられた。
 こうして「六月蜂起」は革命に進展することなく、終了した。この時点で、二月革命そのものも終焉したと言える。この間、ラマルティーヌは社会主義派との妥協を目指して調停に尽くしたが、総選挙後の流れはより保守的な共和主義者が主導し、革命を強制終了させる方向へ動いており、その流れを止めることはできなかった。
 このように、革命のプロセスでは選挙が革命の進展を止め、保守的な流れを作り出すことがしばしばあるが、これは資金力が決定要因となる選挙議会制度が本質的に持つ反革命的・保守的な機能のなせるところである。フランス二月革命では、そうした機能が明瞭に表れたと言える。
 「六月蜂起」後の展開は、より反動的であった。新たな憲法からは、二月革命の限定的な成果である社会権(労働権)条項は削除され、アメリカ合衆国にならった大統領共和制が採択された。新憲法の下、48年12月に実施された初の大統領選挙では、ナポレオンの甥ルイ・ナポレオンが「六月蜂起」鎮圧の立役者カヴェニャックを大差で破り、圧勝した。
 ルイ・ナポレオンは当初は泡沫候補にすぎなかったが、曖昧な共和主義者として行動しつつ、無難なイメージと叔父ナポレオンへの郷愁感情を巧みに利用しつつ、広報戦略を駆使してブルジョワ層や農民層からも支持を得て当選を勝ち取った。その意味では、彼こそは近代史上初の大衆迎合主義ポピュリストの政治家であった。
 しかし、彼の野心は別のところにあった。大統領に就任した後、革命の成果を骨抜きにする政策を展開した末、1851年には自身の政権を解体する「自己クーデター」の形で憲法を停止し、翌年には国民投票をもって皇帝に即位、第二帝政を開始するのである。まさに半世紀前に叔父がたどった道である。
 こうして、二月革命は反動化から帝政へという18世紀フランス革命の反復に終始した。しかし、革命のマグマは18年に及んだ第二帝政の期間中、潜勢力的に持続しており、次の革命を待機している状態であった。さしあたり、それは1870年代まで持ち越しとなる。

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近代革命の社会力学(連載第49回)

2019-12-09 | 〆近代革命の社会力学

七 第二次欧州連続革命:諸国民の春

(3)フランス二月革命

〈3‐3〉革命政府の樹立と展開
  1848年2月、オルレアン朝政府がパリのシャンゼリゼ通りでの「改革宴会」を禁止したことに端を発する民衆蜂起が革命的な展開を見せると、国王ルイ・フィリップは側近による強硬な鎮圧策の進言を拒否し、亡命を決意した。これにより、七月王政は倒れ、18世紀フランス革命以来の共和制が樹立される。
 この第二共和政の臨時政府は、「改革宴会」を主導していた穏健な共和主義者が中心となって構成された。政府首班には18世紀フランス革命を経験した老政治家デュポンドルールが就いたが、実権を握っていたのは外相に就任したアルフォンス・ド・ラマルティーヌであった。
 ラマルティーヌ自身は貴族出身であったが、オルレアン王政が崩壊した要因が都市民衆の中核となった労働者階級の政治的・経済的不満にあることを洞察していたから、当時労働者階級を代弁していたルイ・ブランらの社会主義者を取り込み、労働者の権利問題を優先課題とした。
 その結果、18世紀フランス革命当時の人権宣言では想定されていなかった生存権や労働基本権のような社会権の理念が初めて政治の場に登場することとなった。しかし、ブランはさらに先を見ていた。
 失業の要因を資本主義的自由競争にあると見定めた彼は、主要産業の国有化、さらには労働者の自主管理企業の設立など、近代的な社会主義のマニフェストとなる経済政策を掲げ、実現しようとした最初の政治家であった。
 このようなブランの考えに対して、ブルジョワ階級は当然反発し、政府実権者ラマルティーヌも懐疑的であった。ラマルティーヌは、穏健な共和主義者として、急進的な社会主義を抑制しつつ、漸進的な社会改革を進めたい考えであった。
 そこで、ある種の妥協策として、政府公営の失業対策事業として数万人規模で労働者を雇用する「国立作業場」の設置を決定した。さらに、この妥協策に不満で、閣僚辞職の意思を表明したブランをつなぎとめるべく、産業界と労働界双方の代表からなる「労働者のための政府委員会」を設置した。
 この委員会は公式の政府機関ではなく、諮問機関と労使調停機関の両方を兼ね備えたユニークな機関であり、法的拘束力はないながらも、労働省の設置や鉄道・鉱山の国有化、フランス銀行の国有化、労働者協同組合への融資など、当時としてはかなり進歩的な社会改革を提起したのであった。
 しかし、明らかにブランの考えを反映したこれらの提案はブルジョワ階級の危機感を一層煽っただけでなく、協同農場の設立といった社会主義的農業の提案は前世紀の革命を通じて土地を獲得していた農民の間に農地を接収される不安を掻き立てる結果となった。
 問題の解決は、4月に予定されたフランス史上初の男子普通選挙制による制憲議会選挙に委ねられることになる。まだ近代的な政党政治は確立されていなかったが、一挙に900万人に膨れ上がった有権者に対し、各党派が支持を訴えて選挙戦を戦うという政党政治の原型が生まれたのも、この時であった。同時に、この選挙はブルジョワ対プロレタリアに、農民も加わった階級闘争の場ともなった。
 とはいえ、穏健共和主義者優位の臨時政府の構成からして、穏健共和派勝利が予想されたが、果たして、結果は穏健共和派が880議席中500議席を取る大勝であった。これに作家のヴィクトル・ユゴー率いる王党派系の保守派200議席を加えると、反社会主義派の圧勝である。
 ブルジョワ陣営からの効果的なネガティブキャンペーンをはねのけることのできなかった社会主義派は80議席の少数議席にとどまった。この選挙結果を経て、二月革命はブルジョワ共和革命の線に収斂したと言える。18世紀の第一共和政との違いは、男子普通選挙制により民衆の意思を無視できなくなったことである。
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貨幣経済史黒書(連載第31回)

2019-12-08 | 〆貨幣経済史黒書

File30:ソ連解体と「ショック療法」経済

 1991年12月、世界を驚かせたのは、アメリカ合衆国と長く対抗してきた超大国ソヴィエト連邦が突然、解体されたことである。その背景的な要因としては、前回見た「不足経済」のような構造的な経済危機もあったが、解体自体は同年8月の保守派クーデター未遂事件後のある種革命的な動乱という政治的要因によるものであった。
 ここでの問題は、解体された後の経済的大混乱、とりわけソ連邦を構成した15の共和国の中でも盟主格だったロシアで起きた大混乱の件である。同様の大混乱は、程度の差はあれ、他の構成共和国、さらには同時期にソ連型の社会主義体制を脱した東欧諸国でも起きていたが、人口も多いロシアのそれが最も悲惨な結果を招いた。
 この大混乱は、ソ連時代の社会主義中央計画経済を資本主義市場経済に転換する過程で起きた。そのような転換の当否はさておき、経済体制の歴史的転換を実現するには、混乱を最小限に抑制するための周到なプログラムを要するはずだった。ところが、当時ロシアを率いていたのはソ連解体を主導したボリス・エリツィン大統領で、彼はある種の“革命家”として、より急進的な方法を望んだ。
 それが「ショック療法」と呼ばれる一連の経済政策であり、これは「純粋資本主義」を目指し、資本主義市場経済化を一挙に実現しようとする過激な政策であった。その背後には、戦後の通貨制度の番人とも言える国際通貨基金(IMF)とその実質的な司令塔であるアメリカの助言、さらにはアメリカで主流的なマネタリストのイデオロギーがあった。
 価格・貿易・通貨すべての自由化に及んだ「ショック療法」の中でも、人々の生活を直撃したのは、価格統制の撤廃であった。これにより、ソ連時代の「不足経済」は解消され、商品は流通するようになったが、年率2500パーセントを超える異常なハイパーインフレーションを来たした。かつては買う金はあるが、品物がない状態から、今度は品物はあるが、買う金がない状態への転換である。
 非効率で、「不足経済」の元凶でもあった国有企業の民営化も「ショック療法」の主要なプログラムであったが、エリツィン政権が財政危機対策として導入した株式担保融資という便法により、多くの国有企業が自身の蓄財を動機とする思惑的な新興企業家の手に渡り、生産活動を停滞させた。
 結果、新生ロシアの国内総生産(GDP)は発足二年目の1992年、前年比で15パーセント近く落ち込み、エリツィン政権が続いた1990年代を通じて半分以上も低下した。これは恐慌とは別種ながら、症候としては恐慌に類似した現象であった。識者の中には、かつてソ連が回避できた1929年大恐慌になぞらえる者もいたほどである。
 この間、失業・貧困の増大で20世紀最終年度の2000年には貧困率30パーセントという状況であったが、その一方で、国有企業の民営化過程で形成された新興資本家オリガルヒは寡占財閥を形成し、政権とも癒着するある種の政商となった。こうした粗野とも言うべき露骨な貧富格差構造が生まれたのも、「ショック療法」経済の帰結である。
 歴史的に見れば、「ショック療法」は帝政ロシア時代晩期に未成熟ながら形成されていた独占資本主義段階に立ち戻るような帰結をもたらしており、これは凄惨な内戦という代償を払って成功させたロシア革命を否認する反革命反動であったが、貨幣経済をうまく制御できなかった点では、ソ連時代の中央計画経済も同列である。
 ともあれ、「ショック療法」経済はエリツィン政権の1990年代を通じて続いたから、新生ロシアにとっての1990年代は、同時期、全く異なる要因から経済危機に直面していた日本とともに、「失われた10年」となった。それが収拾されるのは、2000年のウラジーミル・プーチン大統領の就任をはさみ、21世紀のことである。

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続・持続可能的計画経済論(連載第9回)

2019-12-06 | 〆続・持続可能的計画経済論

第1部 持続可能的計画経済の諸原理

第2章 計画化の基準原理

(2)環境バランス①:「緩和」vs「制御」
 持続可能的経済計画の策定に当たっては、環境バランスが物財バランスに優先する基準原理となる。環境バランスとは、厳密には、地球の自然生態系の均衡的な維持に係る生態学的なバランス(ecological balance)を意味している。
 その意味では、「生態バランス」と明確に規定したほうがふさわしいかもしれないが、必ずしも広く支持されている用語ではないので、ここではより広範に地球環境の健全なバランスという意味で「環境バランス」としておく。
 このような意味での環境バランスの原理として最も初歩的なものは、生態系への負荷を可及的軽減する「緩和」(mitigation)である。これは、経済開発をするに当たり、開発そのものを統制するのではなく、開発により発生する環境負荷を段階的に軽減することを目指すものである。
 その段階として、回避→最小化→矯正→軽減→代償の順を追っていくが、はじめの「回避」はある開発行為をそもそも回避するというゼロ回答であるからほぼ採用されず、二番目の「最小化」も、ある開発行為の程度や規模を最小限に抑制することを意味するから、採用されにくい。
 三番目の「矯正」は、開発行為によって損傷された生態系を修復することが可能な限りでは機能するが、その修復に多額のコストを要する場合には却下され、結局は四番目の「軽減」に落ち着くように仕組まれている。実際のところは、「軽減」でさえも開発の妨げとなるので、逃げ道として用意された五番目の「代償」(金銭的補償を含む)で処理されることも多い。
 このような発想は、「開発と環境の両立」スローガンに象徴されるような資本主義枠内での「環境保護」という緩やかな環境政策には適合的である。実際、この考え方が、沿革的には資本主義総本山のアメリカ合衆国で発祥したという事実にもうなずけるものがある。もっとも、計画経済にあっても、開発に重点を置く開発経済計画のスキームならば採用することのできるものである。
 しかし、生態学的持続可能性の保障に重点を置く持続可能的計画経済の原理としてみると、「緩和」原理はまさしく緩やかすぎて、基準原理としては不十分である。むしろ、「制御」(controlling)という考え方を導入する必要がある。
 「制御」とは、「緩和」にとどまらず、より積極的に生態系の均衡維持のために生産活動を量的にも質的にも統制する基準原理である。先の「緩和」原理の五段階に照らすなら、回避→最小化→矯正の三段階を計画的に実施する一方、軽減や代償という中和化された段階は排除されることになる。
 このような「制御」原理は一つの大枠であって、これを計画経済に適用するためには、生産活動による環境負荷を客観的に計量するための収支計算を可能とする精密な数理モデルを考案し、適用する必要がある。これが次なる課題である。

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近代革命の社会力学(連載第48回)

2019-12-04 | 〆近代革命の社会力学

七 第二次欧州連続革命:諸国民の春

(3)フランス二月革命

〈3‐1〉オルレアン朝体制の限界
 第二次欧州連続革命の中にあって、フランス二月革命は他諸国の革命とはいささか次元を異にする位置づけにある。それゆえ、フランス二月革命を格別に取り出して論じることもできるが、ここでは、連続革命の中の一つという位置づけを維持したうえで、分岐的に見ていくことにしたい。
 フランス二月革命の位置づけが他と異なるのは、フランスでは欧州第一次連続革命の過程で起きた1830年七月革命が成功し、ブルボン朝が最終的に打倒され、ブルボン支流オルレアン家出身のルイ・フィリップを君主とするオルレアン朝立憲君主制が成立していたからである。
 つまり、英国を除く大陸欧州諸国ではウィーン体制下、反動的な絶対君主制が復活し、良くても進歩的な啓蒙専制君主による上からの近代化が進められる程度にとどまっていたところ、フランスでは立憲君主制が一足先に実現していたのであった。
 とはいえ、選挙権は人口の1パーセントにも満たないブルジョワ富裕層に限定された制限選挙制であり、七月革命時、前線で身を挺した労働者や小農などは政治過程から排除されたままであった。一方で、産業革命がフランスでも開始され、資本主義的経済成長が見られたが、その恩恵を受けたのはブルジョワ階級に限られていた。
 このように、オルレアン朝七月王政は、典型的なブルジョワ中心民主主義の権化であり、政治的にも社会経済的にも限界を抱えていた。こうした状況に対して、普通選挙運動が勃興するが、オルレアン朝政府はこれを拒否し、抑圧していた。
 当時、歴史家として体制イデオロギーの工作者であると同時に、首相としても行政府を仕切っていたフランソワ・ギゾーの言葉「選挙権を欲するなら、金持ちになれ」は失言・暴言と受け止められたが、ブルジョワ中心民主主義の本質を簡明に要約した“名言”であった。

〈3‐2〉未然革命:改革宴会
 普通選挙運動が抑圧される一方で、1845年以降、アイルランドでは亡国的な大飢饉を引き起こしたジャガイモの胴枯れ病に起因する飢饉の影響がフランスにも及び、食料価格の高騰による貧困の増大という経済危機が広がっていた。
 こうした経済危機に直面する中、政府に対し改革を求める運動が立ち上がる。それは「改革宴会」と呼ばれるユニークな形態を取った。その名のとおり、これは大衆デモとは異なり、宴会的な要素を伴ったオープンな政治集会であった。主催者は比較的穏健な共和主義者たちであった。
 最初の「宴会」は、1847年7月にパリで主催されたが、これが短期間のうちに全仏規模に広がっていった。翌年にかけて70回の「宴会」が開かれ、のべ2万人近い参加者を集めたとされる。公式には政治的集会は禁止されていたが、当初、政府は「宴会」を黙認していた。
 「宴会」は誰でも参加できる直接参加型の民会のようなスタイルで開催され、民衆蜂起とは異なり、非暴力的なやり方で選挙制度改革を中心とする政策提案がなされたという点では、公式の政府・議会に対抗する民衆権力の表出とも言え、「宴会」の全国的な広がりは、革命を準備する未然革命のような段階を画していた。
 そうした新たな革命の危機を感じ取ったギゾー政権は、1848年2月、パリのシャンゼリゼ通りで計画されていた「宴会」の中止を命じた。「宴会」に対する体制の最初の反撃であった。しかし、この強権措置は逆効果となった。
 2月22日の「宴会」当日、政府の中止命令に背いて、多勢の労働者、学生らが集会した。この「宴会」は、間もなく大規模なデモ行進に形を変え、議会へ向かった。これに対し、阻止のため政府が差し向けた軍の発砲で死者を出したことは火に油を注ぐ結果となる。
 国王ルイ・フィリップはギゾーを罷免して内閣交代を断行したが、事態を軽視していた国王は後任首相にも保守派を据えるミスを犯した。国王の姿勢に失望・反発した民衆は24日、武装蜂起し、ここに再び革命のプロセスが開始されることになる。
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近代革命の社会力学(連載第47回)

2019-12-03 | 〆近代革命の社会力学

七 第二次欧州連続革命:諸国民の春

(2)イタリア諸邦の革命
 第二次欧州連続革命の口火を切ったシチリアは、第一次連続革命でも舞台の一つとなったこともあり、時のボルボーネ朝両シチリア王国の君主フェルディナント2世は、啓蒙専制君主としてウィーン体制下では比較的リベラルで進歩的な政策を実行していたが、1830年代後半から、再び立憲君主制要求運動に直面した。
 これに対して、フェルディナンドは抑圧で応じたが、47年には南イタリアで民衆暴動が起きたのに続いて、48年1月にシチリアで農民を主体とする大規模な民衆蜂起が勃発した。その結果、フェルディナンドは譲歩し、民主的な憲法の制定と立憲君主制への移行を受諾したが、君主に議会の監督権が留保されるなどまさに妥協の産物となった。
 シチリアの革命に続き、48年3月にはオーストリア支配下にあったミラノとベネチアでも反オーストリアの民衆蜂起が発生し、共和国が樹立された。両共和国は、オーストリアとの戦争に備えてサルデーニャ国王カルロ・アルベルトに援軍を要請した。
 カルロ・アルベルトは第一次欧州連続革命当時、サルデーニャの革命政府と折衝した経験のある人物で、保守的ながらある程度民主的な傾向を持つ君主であった。共和制には反対しながらも、おそらくはサルデーニャへの革命波及を防ぐため、彼はミラノ・ベネチアの両共和国を援助することにした。
 その結果、対オーストリア戦争が開始されるが、カトリック国オーストリアとの関係維持を優先するローマ教皇からは協力が得られず、当初は援軍を出した両シチリア王国も戦線離脱すると、いったん撤退していたオーストリア軍が盛り返し、サルデーニャ軍を破り、休戦協定が締結された。
 一方、革命の波はついにイタリアの特殊領域であるローマ教皇領にも波及した。時のローマ教皇ピウス9世もまた比較的リベラルな人物で、ある程度民主的な憲法を制定するなど、改革姿勢を見せていたが、フランスの二月革命後は革命の波及を恐れ、反動化した。
 48年11月にピウス9世側近で教皇領内務大臣ロッシが暗殺されたのを機に民衆蜂起が起きると、ピウスもいったん革命軍に軟禁された後、49年2月にローマを脱出し、ガエータへ亡命した。こうして、ローマ教皇領でも史上初の市民革命が成功し、ローマ共和国が樹立された。
 さらに当時ハプスブルク分家が統治していたトスカーナでも共和革命が発生した。時のトスカーナ大公レオポルド2世もまた、ある程度民主化に譲歩を示してはいたが、反オーストリア蜂起を抑えられず、49年2月に国外亡命し、共和国が樹立された。このトスカーナ共和国は新生ローマ共和国とも同盟関係を結んだ。
 こうして、イタリア全土の主要な領邦で共和革命ないしは立憲革命が次々とドミノ的に連鎖する状況となったが、オーストリアないしオーストリアに支援された旧体制側の軍事的な反撃に耐えられた革命体制は存在しなかった。
 発端となったシチリアでは、ハプルブルク分家出身の継妃を持つフェルディナンド二世が独力で反撃に出て、49年3月に革命的な国民議会を解散したのに続き、同年4月に一方的に独立宣言したシチリアには軍を送って砲撃するという強硬手段で粉砕した。その後は、国際的孤立を招くほど革命勢力に対する徹底した報復的弾圧を実行した。
 北イタリアでも、後ろ盾のサルデーニャが再開された対オーストリア戦争に敗れ、カルロ・アルベルトが49年3月に退位を余儀なくされると、まず4月にトスカーナ共和国が降伏したのに続き、ローマ、ミラノ、ベネチアの共和国も順次降伏した。
 こうして、イタリア諸邦における連続革命はいずれも一年程度の命脈に終わった。第一次連続革命当時と同様、イタリア半島が分裂状態のままでは、態勢を立て直した強大なオーストリア軍に対抗して革命政権を維持することはそもそも不可能であった。
 とはいえ、サルデーニャ王国はカルロ・アルベルトの退位後も独自的な存在として存続し、やがて島嶼の同王国を起点に本土でもイタリア統一運動が活発化していくことになる。その意味で、イタリアにとっての第二次欧州連続革命は、1860年代に成る統一国家樹立への地殻変動の始まりでもあった。

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近代革命の社会力学(連載第46回)

2019-12-02 | 〆近代革命の社会力学

七 第二次欧州連続革命:諸国民の春

(1)概観
 
欧州では、ナポレオン帝政の崩壊後、ウィーン会議で旧絶対王政の復活が国際的に保証され、18世紀フランス革命以前の世界へ引き戻そうとする反革命反動の潮流が定着、欧州主要国で続々と絶対王政が復権していた。これに反抗する第一次欧州連続革命は、ポルトガル革命とフランス七月革命を除けば、いずれも短命で挫折したことは六でも見たところである。
 この間、欧州の革命勢力は抑圧され、冬の時代にあったが、完全に絶滅したわけではなかった。特に、いまだ統一国家が形成されていなかったイタリアでは、マグマのように革命の機運が高まっていた。それが1848年、まずは復古主義の象徴でもあったボルボーネ(ブルボン)朝支配下のシチリアにおける革命として爆発し、次いでオーストリア支配下にあった北イタリア各地にも連鎖していった。
 この動きはフランスにも同時的に波及し、同じ年のうちに二月革命を誘発した。フランスでは、七月革命以来、よりリベラルなオルレアン朝の立憲君主制が機能していたが、制限選挙により参政権を否定されていた労働者層の不満が鬱積していたのであった。革命により、国王ルイ・フィリップは退位・亡命し、18世紀フランス革命以来の共和制が復活した。
 端緒となったイタリアの諸革命は順次鎮圧され挫折するが、フランス二月革命の成功は、連続革命に勢いを与えた。それは、ウィーン会議体制のまさに聖地とも言える反革命の牙城オーストリアにまで波及した。ここでは、三月革命により、ウィーン体制の守護神的存在であったオーストリア宰相メッテルニヒが辞職・亡命に追い込まれた。
 さらにこの動きはオーストリア同様に保守的なプロイセンにも拡大し、ベルリンでも三月革命を誘発し、民主的な統一ドイツの創設を目指すフランクフルト国民議会の招集にもこぎつけた。プロイセンの革命は当時まだ多数の領邦に分裂していたドイツ全土に広がり、諸邦で革命的蜂起があった。
 第二次欧州連続革命の波は、第一次革命では影響が限られていた中東欧にも広く拡散し、ハンガリー三月革命のほか、ボヘミア、ポーランド、ルーマニアなど、大国の支配下にあった地域でも革命ないしは革命的蜂起を誘発した。また北欧でも、デンマーク三月革命を誘発した。
 こうした一連の連続革命は、そのほとんどが1848年の一年間に集中しているため、これを「同時革命」と呼んでもさしつかえないかもしれない。連鎖範囲の点でも「諸国民の春」と通称されるほどに広範な革命の連鎖現象は世界歴史上も初のことであり、19世紀前半における新聞・出版メディアの発達というマス・コミュニケーションの変革も情報拡散手段として後押ししたと考えられる。
 もっとも、同時革命といっても、諸革命の担い手勢力は、各国の地政学状況や政治情勢、社会経済的発展段階により、ブルジョワ革命の性質を有するものから、プロレタリア革命、社会主義革命の性質を一部有するもの、民族的独立に重点のあるものまで、多様であり、全体を一つにまとめられる革命事象とは言えない。
 その点、カルボナリ(シャルボンヌリー)党が一定の革命的核心となった第一次連続革命と比べても各国革命勢力間の連携には欠けており、第二次連続革命も多くの場合、絶対主義体制側の武力により押し返され、そのほとんどが挫折に終わった。
 ひとまず成功したと言えるのはフランス二月革命であったが、ここでも当初共和制下の大統領に就任したナポレオンの甥ルイ‐ナポレオン・ボナパルトが自己クーデターによって共和制を廃し、叔父に倣った第二帝政を樹立したため、18世紀フランス革命の反復のような事態に向かってしまうのであった。

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貨幣経済史黒書(連載第30回)

2019-12-01 | 〆貨幣経済史黒書

File29:ソ連の「不足経済」

 1917年ロシア革命後のソヴィエト連邦(ソ連)は、当時としては世界初の実験であった中央計画経済システムを導入し、世界市場からは退出したため、主要国の中で1929年大恐慌の影響を免れた数少ない存在となった。その後も、ソ連の計画経済下では恐慌やハイパーインフレのような資本主義的事象の発生は防がれていた。
 独裁者スターリンの時代に開始された経済計画を通じた工業開発は、第二次世界大戦時の対独戦争で大きな代償を払いながらも、戦後復興に成功し、1953年のスターリンの死をはさんで、1960年代初頭頃までは、高い経済成長―言わば、ソ連における高度経済成長―を示した。
 こうした点だけみれば、ソ連の計画経済システムもそう悪いものではなかったように思えるが、実のところ、ソ連型計画経済では、消費財の供給が停滞し、物不足が恒常化するという欠陥現象が起きており、識者はこれを「不足経済」(shortage ecomomy)と呼んでいた。
 実際、資本主義社会の学校教科書は、しばしばソ連やそのシステムを模倣した東欧同盟諸国の国営商店の棚が空であったり、少ない商品を早い者順で入手しようと、朝一番で店の前に並ぶ主婦たちの長い行列ができている写真を半ば揶揄的に掲載し、社会主義システムの欠陥として教え込むのが当時の定番となっていた。
 こうした「不足経済」は、大衆が飢餓に陥るような全般的窮乏とは異なり、いちおう人間として最低限度の生活を営むだけの消費経済は運営されているが、物品が手に入りにくく、まさに行列が日常の光景となるような事態を招くものであった。このような事象が発生する要因としては、過少生産に陥っているか、流通に欠陥があるかのいずれかであるが、実際はその両方だったようである。
 中央計画経済は需要と供給を人為的に制御することで、資本主義自由市場に付きまとう景気循環の不安定さを回避するという狙いから導入されたにもかかわらず、需給関係が見合わない過少生産となったのは、貨幣経済を廃することなく、消費財の価格を政府が低く統制していたことによる。
 資本主義市場でも同様であるが、低価格商品は人気が集まり、品切れとなりやすい。需要に供給が追いつかない状況である。多くの商品が統制された低価格で販売されれば、当然相対的な過少生産となり、品薄が恒常化するのは見やすい道理である。
 それに加えて、中央計画経済の支柱であった国営生産企業の汚職により、賄賂と引き換えで生産物の横流しが蔓延し、闇市場が広がっていたことである。闇市場では、公定価格より割高ながら必要な物資が入手できるため、非公式の地下経済としてソ連の全期間を通じて闇市場が存在していた。
 このようにして、安定性という点では利点のあった中央計画経済システムは、常に需要が供給を凌駕するという相対的な過少生産を構造化してしまったと言える。結果として、消費者はだぶついた所得の多くを貯蓄に回すことになった。
 この状況は、資本主義におけるデフレーションと似ており、不足経済とは疑似的なデフレーションが常態化する事態とも言えるかもしれない。言わば、物はあるが買うための金がないのが資本主義的デフレーションであるとすれば、金はあるが買うべき物がないのが社会主義的デフレーションである。
 こうした不足経済は、中途半端な市場経済モデルを導入を試みたソ連末期の経済改革でいっそう悪化した。地下経済の一部が顕在化し、半市場が形成されたことで、人間的な最低限度の生活はまかなえていた計画経済が崩壊し始め、ついには戦時のような配給制の導入に踏み切らざるを得ないほどの経済危機を招いた。
 同時期、資本主義の日本もバブル崩壊による「敗戦」に直面しつつあったが、1990年代初頭のソ連もある種の「敗戦」の状態にあり、これがソ連そのものの解体という歴史的な出来事を招来する一つの要因ともなった。しかし、それで終わらず、その後、ソ連という毛皮を脱いだ新生ロシアは急激な資本主義化による大混乱を経験する。

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