ザ・コミュニスト

連載論文&時評ブログ 

近代科学の政治経済史(連載第8回)

2022-04-09 | 〆近代科学の政治経済史

二 御用学術としての近代科学(続き)

英国王立学会
 メディチ家の実験アカデミーが設立されて間もなくの1660年、英国では王立学会(ロイヤル・ソサエティー)が設立された。正式名称は「自然の知識を促進するためのロンドン王立学会」という長名であるが、要するに自然科学学会である。
 とはいえ、当初のメンバーの中で科学者と呼び得るのは三分の一程度で、その余は政治家や法律家を含めた他分野の専門職らであり、メンバー構成としては知識人会といった趣のある団体であった。
 この団体の特徴は、王立の名辞にもかかわらず、民間人の発案にかかる民間団体であったことである。ただし、箔付けのため、時の国王チャールズ2世の勅許を得たことから、国王の認証する準公的団体となった。
 その点で、王立学会は純粋の御用学術機関ではないが、勅許を与えたチャールズ2世は少年期に物理、化学や数学の家庭教育を受けたことから、個人的に科学を好み、自身でも天文台や化学実験室を設立するなど、終生科学研究に助成を行ったため、王立学会も形式的な認可ではなく、自身の関心から積極的に勅許を与えたのであった。
 王立学会の初期の最も著名な会員は、弾性に関するフックの法則で名を残したロバート・フックである。彼は王立学会の主任実験助手として雇われた後に会員となり、後に事務局長として王立学会の初期の活動で足跡を残した。
 王立学会も、メディチ家の実験アカデミーと同じく、実験科学の発展を当初の目的とし、公開実験などを積極的に行ったが、次第に学問的な討論の場となり、まさに「学会」に変化した。その結果、王立学会は今日まで持続する最古の科学学会となった。

フランス科学アカデミー
 英国王立学会に続き、フランスでも1667年に科学アカデミーが設立された。その経緯は英国王立学会とは大きく異なり、時の財務総監ジャン‐バティスト・コルベールの発案に基づき、時のルイ14世が創設したもので、1699年に正式に王立機関となった。
 このように、フランス科学アカデミーはルイ14世からの下賜金を元に初めから御用機関としてスタートしたが、財政再建に辣腕を振るっていたコルベールがこのようなコストのかかる御用機関の設置をあえて提案したのは、科学技術の発展が国家の繁栄につながるということに着眼していたからであった。
 しかし、当時フランス科学はまだ発展途上であったため、オランダの優れた物理学者クリスティアーン・ホイヘンスを外国人会員として招聘し、研究拠点を与えた。ホイヘンスが特に名を残した光の波動に関する原理を発見したのも、フランス時代であった。
 御用機関であることを反映し、フランス科学アカデミーは会則に基づいて運営され、幾何学や機械学などを含む部門に分けられるなど、組織性が明確であったことに特徴がある。その点では、現代の国立科学研究機関の草分けとも言える存在である。
 実際、フランス科学アカデミーは革命前の旧体制下で発展し、当時の欧州における科学研究の最前線にあったが、それだけに革命後は旧体制の象徴として敵視され、いったん廃止となり、後にフランス学士院の一つとして再編され、今日に至っている。

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領土(域)の共有

2022-04-07 | 時評

主権国家が最も苦手としていることがあるとすれば、それは領土の確定である。主権という排他的支配観念を保持する限り、領土は単一の国家の排他的支配領域であって、一つの領土が複数の国家に属することはあり得ない。領土はシェアできないのである。

そのことが最も明瞭な形で問題となったのが、ソ連邦解体後に旧ソ連邦領内で多発した民族紛争である。その点、ソ連体制は15の構成共和国のみならず、各共和国内の多くの少数民族にも形だけの自治共和国を与え、それらを全部まとめてソ連邦という単一の連邦主権国家に編入するという形で技術的に民族問題を「解決」していた。

一見して巧みな解決法であり、実際、ソ連邦が持続していた間は、深刻な民族紛争は抑えられていた。しかし、この「解決」は見かけだけのものであったことが、ソ連邦解体後に続々と露呈していった。「ソ連の平和(パクス・ソヴィエティカ)」は所詮、ソ連邦の事実上の支配国ロシアの覇権に組み込まれていた限りでの「平和」に過ぎなかったのだ。

目下最大の国際問題となっているロシアのウクライナ侵攻の背景にも、こうした見せかけのパクス・ソヴィエティカの崩壊が関わっている。そのことは、当初、首都キエフを落とす構えも見せていたロシアがウクライナ東部地域の占領に焦点を絞ってきた(と見られる)ことで、一層鮮明になった。

この地域は、すでに先行してロシア領に編入されたクリミアほどではないが、少数派ながらロシア系住民が比較的多く、ロシアへの帰属を求める人々も少なくないことから、分離独立運動が発生している。ロシアはこの運動を支持するという大義名分で東部の占領を目論んでいる。

対するウクライナも、主権国家として東部地域のロシア編入―実質的な領土の割譲―を容認するわけにいかないので、徹底抗戦するであろう。領土の割譲は、主権国家にとって最悪の屈辱だからである。
 
こうした領土紛争はウクライナに限らず、歴史上世界中で起きてきた戦争原因の第一位であり、特に主権国家概念が確立された近代における戦争の実質はすべて領土紛争であると言って過言でない。

こうした領土をめぐる対立を止揚する方法は、主権国家概念の揚棄をおいて他にはない。その点、筆者の年来の提唱にかかる「領域圏」という概念は、主権という排他的概念によらないので、一定の領域のシェアも可能である。

例えば、ウクライナ東部であれば、これをロシアとウクライナ双方の共有領域とすることも可能となる。その場合、いずれの法令によって統治するかという問題は残る。

その点、法的にはいずれか一方の領域圏に属しつつ、もう一方の領域圏には代議機関にオブザーバ参加し、その政策決定に一定の影響力を行使するという方法が単純明快ではあるが、この場合、法的にいずれの領域圏に属するかをめぐって紛争が生じる恐れは排除できない。

それを避けるには、いささか技巧に走るきらいはあるが、例えばロシア系住民とウクライナ系住民で別々の代議機関を持ち、前者はロシア法、後者はウクライナ法に従うといった属人的統治を行うことも不可能ではない。

このように、主権国家という西欧近代の固定観念から解き放たれることによって、新たな平和の形が見えてくるのである。これは、地球規模での恒久平和という空想を現実に変えることのできる思考上の大革命である。

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近代革命の社会力学(連載第408回)

2022-04-06 | 〆近代革命の社会力学

五十七 ソヴィエト連邦解体革命

(5)ソ連邦解体への急進
 共産党保守派クーデターが民衆の抵抗により短期で挫折した後、形式上ゴルバチョフ政権は復旧されたが、自身の側近集団を統制できず、背信的なクーデターを許したソ連邦大統領としてのゴルバチョフの威信は完全に失墜していた。
 代わって、ロシアのエリツィン大統領が事実上ロシアを超えてソ連邦の指導者に近い立場に浮上した。エリツィンが取り急いだのは、クーデターを引き起こした共産党の活動禁止措置であった。ゴルバチョフ自身も兼任していたソ連共産党書記長を辞任し、党中央委員会に解散を勧告した。
 そうしたうえで、改めてクーデターの焦点でもあった新連合条約の調印問題が課題となった。この条約が改めて調印されていれば、革命的経過をたどらなかったはずであるが、クーデター事件の後、すでに構成共和国の多くが完全独立へ向けて動き出していた中、1991年11月の合意には7共和国しか参加しなかった。
 特に、ソ連邦の中でロシアに次ぐ枢要性を持っていたウクライナで住民投票による完全独立が決まったことは大きな打撃となった。ウクライナはソ連邦の中でも穀倉であるとともに、産業化が進んでおり、新条約で創設されるソヴィエト連合においても枢要な地位を占めるはずだったからである。
 そのウクライナが不参加となったことで、ソヴィエト新連合は事実上成立の見込みの乏しいものとなった。その点では、新連合条約の推進者であったゴルバチョフも同意見であり、結局、新連合条約は白紙に戻された。
 これを受け、ロシアとウクライナに白ロシア(現ベラルーシ)を加えたスラブ系の三国首脳が1991年12月8日、白ロシアのベロヴェーシで会談し、ソ連邦の消滅とバルト三国を除いた12の旧ソ連邦構成共和国から成る独立国家共同体の創設で合意した。
 ここで合意された独立国家共同体は当時の欧州共同体(現欧州連合の前身組織)をモデルとしたもので、新連合条約におけるソヴィエト連合とは異なり、もはやソヴィエトの名辞を含まず、完全な独立国家の同盟的連合体に過ぎず、名実ともにソ連邦が消滅することを意味していた。
 この三国首脳だけでのベロヴェーシ合意には法的正当性に疑問があったが、合意の内容は、引き続いて同月21日にカザフ(現カザフスタン)のアルマアタ(現アルマトイ)で開催されたグルジア(現ジョージア)を除く11構成共和国の首脳会議で承認され、アルマアタ宣言として発せられた。これを受けて、同月25日にはゴルバチョフ大統領が辞任を表明し、ソ連邦はここに完全に消滅した。
 この急転的なソ連邦解体にはたしかに合法性に疑問もあったが、保守派クーデターが民衆の抵抗により失敗に終わって以降はソ連全土が革命過程に入っており、通常の憲法的手順を踏んだ政治過程は停止されていたのであり、まさにソ連邦解体が「革命」であった所以である 
  こうして、ソ連邦はクーデターの失敗からわずか4か月で消滅した。1922年の正式な創設からは69年、その動因となった1917年の革命から遡及的に起算しても74年での終幕である。革命に始まり、革命で終わった体制であった。

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近代革命の社会力学(連載第407回)

2022-04-05 | 〆近代革命の社会力学

五十七 ソヴィエト連邦解体革命

(4)新連合条約と保守派クーデター

〈4‐2〉共産党保守派クーデターと民衆の抵抗
 各構成共和国首脳による新連合条約の調印は1991年8月20日に予定されていたが、ソ連共産党保守派はこれを阻止するため、大規模なクーデターを計画し、まずは別荘で夏季休暇中のゴルバチョフ大統領に対し、辞職を迫った。
 おそらく拒否されることを見越して準備していたクーデター集団はゴルバチョフ大統領を別荘に拘束したうえ、翌19日に国家非常事態委員会(以下、非常事態委)を設置し、全権掌握を発表した。
 委員会はゲンナジー・ヤナーエフ副大統領を議長とする8人から成るが、事実上のトップはウラジーミル・クリュチコフKGB議長と見られ、メンバーには当時の首相、内相、国防相などの主要閣僚や国営企業連合の会長など経済人も加わる大掛かりなものであった。
 彼らの戦術は、1964年に当時のソ連最高指導者ニキータ・フルシチョフ共産党第一書記をやはり休暇中を狙って失権させた政変の先例に倣ったものと考えられる。これは党内政変として実行されたが、一党支配体制の当時と異なり、ゴルバチョフ改革により党と国家が分離されていたため、党内政変では足りず、大統領を失権させるには軍や保安機関を動員する必要があり、大掛かりな武力クーデターとなったものであろう。
 それにしても、これだけ大掛かりなクーデターとなった背景には、当時の保守派がいかに新連合条約に危機感を抱いていたかが見て取れる。一方で、自身が抜擢した主要閣僚らの陰謀に全く気が付かなかったゴルバチョフ大統領の権力基盤の弱体化も明瞭となった。
 非常事態委には参加しなかったが、これを支持していたソ連最高会議議長やソ連軍参謀総長を含めれば、行政・立法府の長に軍、保安機関を加えた権力総体的なクーデターが大失敗に終わったことの方が不可解なほどであるが、彼らには戦術的な穴があった。
 クーデター集団は連邦のゴルバチョフ大統領の拘束は迅速に行ったが、連邦とロシアの二重権力状態を理解せず、ロシア側のエリツィン大統領の拘束には動かなかった。そのため、エリツィンはクーデター直後に会見してクーデターの違憲性を強調し、市民にゼネストによる抵抗を呼びかけることができた。
 これに応じたモスクワ市民はバリケードを作り、武装して非常事態委との戦闘に備えるなど、事態は革命的展開を見せた。8月20日には、10万人とも言われるモスクワ市民が集結し、クーデターに反対する大集会を開催したのに続き、労働者のストや抗議が全国に拡大した。
 一方、クーデター集団には国防相や参謀総長が加わっていたにもかかわらず、クーデターに参加したのは軍の一部にすぎず、地上軍主力や空軍は不参加であった。全軍を動員するにはソ連軍はあまりにも肥大化し過ぎていた。このことは、全軍規模での抵抗鎮圧作戦を不能にした。
 とはいえ、8月21日から非常事態委の差し向けた軍とKGBの戦車部隊による鎮圧作戦が開始され、その過程で市民3名が死亡した。しかし、それ以上の鎮圧作戦は展開されず、同日には非常事態委が戦車部隊の撤収を命じたことを受け、ロシア最高会議は非常事態委に権力の放棄を要求した。
 この時点で非常事態委はすでに瓦解状態にあった。21日午後にはエリツィン大統領が勝利宣言を発し、22日には拘束中のゴルバチョフを救出するとともに、非常事態委メンバーを拘束した。
 こうして、共産党保守派による1991年8月クーデターは三日天下で終わり、形の上ではゴルバチョフ政権が復旧されたものの、ソ連邦とロシアの二重権力状況はクーデター阻止の立役者となったエリツィンの優位に変化していく。

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近代革命の社会力学(連載第406回)

2022-04-04 | 〆近代革命の社会力学

五十七 ソヴィエト連邦解体革命

(4)新連合条約と保守派クーデター

〈4‐1〉新連合条約の起草と国民投票
 前回も見たように、ソ連のゴルバチョフ政権は自身が開始した改革政策の結果として刺激されたバルト三国の独立運動に対して硬軟両様で抑圧を図ったが、成功しなかった。この失策は、連邦体制そのものを大きく揺るがすことになる。
 実のところ、ゴルバチョフ政権は1990年11月の時点で、ソ連邦形成の法的土台となった1922年連邦条約を大改正し、構成共和国に主権を回復したうえ、国名をソヴィエト社会主義共和国連邦からソヴィエト主権共和国連邦に変更する新たな条約(新連合条約)の構想を提示していた。
 これは従来の主権を持たない名目上の構成共和国を主権共和国として認め、連邦を主権国家の連合に転換するというもので、それ自体、実質上ソ連邦の解散を意味していた。このような構想はつとに1988年の段階でエストニアが提案していた構想を反映したものであり、ゴルバチョフ政権にとっては大幅な妥協案であった。
 しかし、新条約案をめぐっては国家連合と共和国の権限分配などに関して論争点も多く、起草過程では、形だけの主権回復となることを警戒した原提案者エストニアを含むバルト三国ほか6つの構成共和国が参加せず、最終的に、人民代議員大会では、新条約の是非を問う全連邦国民投票に委ねることを採択した。
 その結果、1991年3月に実施された連邦国民投票も如上6共和国が参加をボイコットしたため、起草に参加した9共和国のみで実施されるという不完全なものにとどまった。そのため、投票結果は約78パーセントが賛成という政権にとっては有利なものとなった。
 片や、急進改革派エリツィンが主導するソ連邦中枢国ロシアでは連邦国民投票と同日に実施された独自の住民投票によって直接選挙に基づく大統領制を新設、同年6月の大統領選挙では無党派で立候補したエリツィンが共産党系の候補者を破って圧勝した。
 ロシアはすでに1990年6月に象徴的な主権宣言を発していたが、エリツィンが直接選挙による大統領に就任したことは、ソ連邦とロシアの二重権力を生み出したに等しく、ソ連邦全体の解体へ向けた第一歩となる激震であった。
 また、連邦国民投票をボイコットしたグルジアでは1990年11月に非共産党系の政権が独自の選挙によって成立しており、連邦国民投票後の91年4月、独立の是非を問う住民投票の結果、99パーセントの賛成により、独立宣言を発した。
 一方、ソ連共産党保守派の間では新連合条約が構成共和国に主権を回復することにより、実質上ソ連邦が崩壊することへの懸念が高まり、91年8月に予定されていた新連合条約の調印を非合法的な手段により阻止しようとする謀議が進行していた。

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続・持続可能的計画経済論(連載第29回)

2022-04-03 | 〆続・持続可能的計画経済論

第2部 持続可能的経済計画の過程

第5章 経済計画の細目

(6)製薬計画の特殊な構成及び細目
 薬剤は広義の食品に含まれるが、その特殊な用途から独立の品目として、広域圏の消費計画には含まず、固有の製薬計画に基づき、製造・分配される。薬剤は多くの場合、全世界で普遍的な共通需要を持つため、製薬計画の大元は世界共同体計画である。
 その際、普遍的需要がある基本薬剤と、少数の難病患者向けの特殊薬剤、さらに特定地域に固有の風土病に対応する風土薬剤が区別される。
 基本薬剤と特殊薬剤は世界共同体の薬剤規制機関により有効性と安全性が確証されることを条件に、世界共同体製薬計画に基づき、世界共同体傘下の世界製薬事業機構が製造し、全世界に公平に供給される。
 それに対し、風土薬剤は、その需要がある汎域圏(例えば、汎アフリカ‐南大西洋圏)の供給計画に基づき、世界共同体製薬計画に登載され、製造・供給される。
 また、感染症に対応するワクチンについては、パンデミックやエンデミック等の流行事象が発生したつど、その流行形態に応じた世界共同体の緊急ワクチン計画に基づき、製造・供給される。
 これら世界共同体の認証にかかる薬剤に対し、各領域圏の薬剤規制機関が独自に認証した薬剤については、各領域圏の製薬計画に基づいて、各領域圏の製薬事業機構が製造・供給される。
 その限りで、製薬計画は世界共同体計画と領域圏計画とに二元化される。ただし、領域圏計画に基づいて製造・供給されていた薬剤の有効性と安全性が世界共同体でも認証され、新たに世界共同体製薬計画上の品目に登載される可能性は常にある。
 この領域圏計画としての製薬計画の対象は全薬剤ではなく、医師の処方薬に限定されるとともに、その中でも特に基幹的な薬剤(上掲区分の基本薬剤に相当)に絞られる。その余の薬剤は公的承認審査に基づく製薬企業体による自由生産と供給に委ねられる。

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近代革命の社会力学(連載第405回)

2022-04-01 | 〆近代革命の社会力学

五十七 ソヴィエト連邦解体革命

(3)バルト三国独立革命

〈3‐3〉三国同時革命への展開
 バルト三国で結成されたペレストロイカ支持の市民組織が独立革命組織へと変貌する契機は、エストニアがもたらした。エストニアでは1988年の時点で民族感情が高揚しており、同年9月には民族音楽をテーマとした大集会が開催され、当時の国民の四分の一近くが参加したとされる。
 これを契機として、エストニアは同年11月に主権回復宣言を発した。ただ、これは象徴的な意味合いしか持たず、未だ独立国としての実態は伴わなかったが、従来タブーであった独立への道に踏み込んだことは大きな転機であり、ラトビアとリトアニアにも刺激を与えた。
 ちなみに、民族音楽、とりわけ従来当局から禁止されていた民謡を歌うことで抵抗の意志を示す方法は、エストニアのみならず、ラトビアやリトアニアでも盛んに行われ、三国独立革命を特徴づけたため、後年「歌う革命」とも称されるようになった。
 1989年に入ると、中・東欧社会主義圏で連続革命が始動する中、バルト三国もこれに刺激を受けつつ、三国が直接に連携するようになった。その頂点は、同年8月23日、バルト三国のソ連併合アが密約された独ソ不可侵条約50周年記念の日に、エストニア首都タリンからラトビア首都リガを経由して、リトアニア首都ビリュニスまでの600キロを人間が手でつなぐ「人間の鎖」というユニークな抗議行動である。
 この「バルトの道」とも称された抗議行動は、翌年に向け、三国が連携してソ連邦からの独立を目指す大きなステップとなった。この過程で先行したのは、リトアニアである。リトアニアは地方的支配政党であったリトアニア共産党がソ連共産党傘下から分離し「独立」するという過程を経て、1990年2月に最高会議選挙が実施され、独立派のサユディスが圧勝した。
 この結果に基づき、同年3月に、リトアニアはソ連邦からの独立を宣言した。これはバルト三国のみならず、ソ連邦全体でも初となる構成共和国の独立宣言であり、ソ連邦解体革命はここに始まると言ってもよい。すぐにラトビアが続き、90年3月の最高会議選挙で独立派が勝利、5月には独立宣言を行った。
 一方、エストニアはいささか異なる道を進んだ。その相違は、エストニア人民戦線が完全独立を将来目標とし、ソ連体制の国家連合化を構想していた一方、急進派は最高会議のようなソヴィエト制度に代えて独自のエストニア会議の設置を求め、対立が起きていたことによる。
 その結果、エストニア会議と最高会議が並立することとなったが、最終的には90年3月の選挙を経た最高会議が主導権を取り、完全独立ではなく、現状をソ連の不法占領下から独立までの過渡期と規定しつつ、ソ連邦との交渉を通じた独立を目指す方針を明らかにした。

〈3‐4〉連邦の反革命介入とその挫折
 独立へ向けた最終段階ではリトアニア・ラトビアとエストニアでその針路が異なり、三国の足並みは揃わないこととなったが、三国の総人口たかだか800万人弱のバルト三国の革命がソ連邦解体の初動となったことに変わりない。
 こうして自ら打ち出したペレストロイカによって促進されたバルト三国の独立動向に対し、ゴルバチョフ政権は否定的であり、独立を阻止するべく、硬軟両様の動きを示した。
 軟派措置としては、1990年4月に連邦離脱手続法を制定し、連邦からの構成共和国の離脱に際して厳格な住民投票を義務付けることで、事実上離脱を妨げるという術策であった。
 これには穏健なエストニアを含むバルト三国が一斉に反発、改めて共同歩調を取らせる逆効果となり、三国首相がバルト共同市場の創設や併合前の1934年バルト三国協商の復活で合意した。同時に、エストニアも独立宣言は保留しつつ、旧国旗の復活や国名変更、さらに脱社会主義の諸法を制定するなど実質上の独立に踏み込んだ。
 こうした動きに対抗して、ゴルバチョフ政権はリトアニアに対する経済封鎖を科するとともに、リトアニアとラトビアの独立を無効と明言して、独立を容赦しない姿勢を鮮明にした。そして、最終的な措置として、1991年1月、三国が打ち出した連邦軍に対する徴兵拒否を名分とする軍事介入を決断する。
 この反革命軍事作戦に基づき、ソ連正規軍部隊とKGB特殊部隊がまずリトアニア首都ヴィリニュスに突入した。この際、ソ連軍が制圧を狙ったテレビ塔を防衛しようとしていた非武装市民13人を射殺する流血事態となった。このような強硬措置はかえってソ連体制の非道性を印象付け、逆効果であった。
 連邦政府は一連の軍事作戦でエストニアとラトビアへの介入も企てていたが、三国独立を支持する急進改革派で、90年6月にソ連邦構成共和国としてのロシア共和国最高会議議長(共和国首長に相当)に選出されていたボリス・エリツィンの介入により両国への軍事行動は中止された。
 こうして、ソ連当局によるバルト三国への反革命軍事介入は失敗に終わったが、この失策はゴルバチョフ政権に高い代償を支払わせるとともに、同じく失敗に終わる同年夏の保守派クーデターの伏線ともなる。

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