ザ・コミュニスト

連載論文&時評ブログ 

近代革命の社会力学(連載第473回)

2022-08-11 | 〆近代革命の社会力学

六十六 アラブ連続民衆革命:アラブの春

(10)イスラーム主義の伸長
 「アラブの春」はイデオロギー色の薄い民衆の自然発生的な蜂起によって継起した連続革命であったが、その中心諸国が世俗主義的‐社会主義的な共和制であったことを反映し、反動として復古的なイスラーム主義勢力の伸長を結果した。
 そうしたイスラーム主義の発現の仕方は各国で異なり、合法的な選挙を通じたものから、武装蜂起あるいは外部からの軍事侵攻によるものまで、各国革命の力学状況により様々であった。
 「アラブの春」全体の端緒となったチュニジアでは革命直後の制憲議会選挙では解禁されたばかりの穏健イスラーム主義政党・覚醒運動が第一党となり連立政権を形成した。同党は新憲法下での各総選挙で議席を減らしてきているものの、以後も連立与党には継続的に参加し、保守的な影響力を保持している。
 エジプトでは、1952年共和革命以来、しばしば弾圧されてきたムスリム同胞団系の自由公正党が革命後の議会選挙で躍進し、2012年の大統領選挙では決選投票の末、同党のムハンマド・ムルシ―が当選、同胞団系政権が合法的に成立した。
 しかし、ムルシ―は就任するや、大統領権限の強化を画策し、批判派への弾圧を開始、さらに経済政策でも失敗するなど、たちまち国民的な支持を失い、抗議行動に直面する中、元来関係が険悪な軍部のクーデターを招き、わずか一年余りで失権、軍事政権が復活した。
 以上のような合法的な形での伸長とは逆に、非合法な形での伸長が見られたのはイエメンである。ここでは宗派対立及び旧分断国家における南北対立を背景に、シーア派武装勢力(通称フーシ派)が首都サナアを制圧して世俗主義政権を放逐したことで、イランを背後する同派の北部政権と、南部アデンに遷都し、サウジアラビア・アラブ首長国連邦を背後とする世俗主義政権との分裂、長期内戦の端緒となった。
 一方、リビアでは革命後の合法的な選挙でイスラーム主義派は敗北したが、世俗派に反発するイスラーム主義勢力が武装蜂起して首都トリポリを制圧したため、トリポリ政府とトブルクに遷都した世俗派の東西分裂・内戦に突入した。
 革命勢力が多岐に分裂したシリアでは、より過激な形での伸長が見られ、アル‐カーイダ系武装勢力が革命勢力の中核に台頭したことに加え、政府の実効支配が及ばなくなった北部では隣国イラクでアル‐カーイダから派生した武装勢力・イスラーム国が侵入してイスラーム国家を樹立するに至った。
 また、半革命により議院内閣制が導入されたモロッコでも、憲法改正後の総選挙で穏健イスラーム主義の公正発展党が第一党に躍進し、継続的に政権を形成する状況が見られた(2021年総選挙では惨敗・下野した)。
 総体として、革命後に合法的な選挙制度が確立された諸国では穏健イスラーム主義の伸長が見られ、確立されなかった諸国では過激なイスラーム主義が伸張し、国家分裂や内戦を助長するという対照的な経過が観察される。

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新興宗教に支配された支配層

2022-08-10 | 時評

改名統一教会への恨みが動機とされる安倍元首相の射殺事件以来、改名統一教会と政治の関係が連日取り上げられているが、このような集中豪雨的報道は、重要なことをかえって覆い隠してしまう恐れがある。それは、日本支配層が各種の新興宗教団体によって支配されているという半ば公然の事実である。

現在は改名統一教会が集中的な槍玉に上がっているが、日本の選挙過程では政党末端組織や各種業界団体と並び、各種新興宗教団体が組織票集めに暗躍していることは、少しでも選挙過程を知る人にとっては基礎知識のうちであろう。改名統一教会は、その一つにすぎない。

とはいえ、一つにすぎないというには改名統一教会が支配層に深く浸透していたことが判明し、波紋を広げていることは理解できる。しかも、その教義・教理には相当「反日的」な要素が含まれているとされながら、愛国・反韓派の多い保守系右派層に食い込んでいたという皮肉な矛盾も興味深い。

この矛盾は、かれらが「押し付け憲法」の元凶とみなすアメリカ合衆国に追従する親米右派と重なっていることとも関連がありそうである。敵視すべき相手と手を組むというのは一見奇妙な行動であるが、改名統一教会及びアメリカ合衆国に共通する政治イデオロギーでもある反共主義との関連からの奇な〝同盟〟なのかもしれない。

とはいえ、現在の統一教会問題狂騒曲には無理な音符がある。新興宗教といえども、憲法上の信教の自由は享受するから、改名統一教会との「関わり」だけで大臣の就任資格を認めないとするような処遇は、信条による差別を禁ずる憲法に違反することになるだろう。信条と大臣資格を直結させることはできない。

その点、統一教会は改名前から深刻な社会問題を引き起こしており、政治との関わりについてもつとに知られていたにもかかわらず、安倍氏生前は一切報道せず、今さら気づいたようなフリをして報道洪水を起こすメディアの姿勢やその意図にも大いに疑問はある。

政治との不適切な関係性を真摯に問題にするなら、漠然とした「関わり」ではなく、改名統一教会の反社会的活動に直接関与したり、それをかばい立てするような対応を政治家として行った場合に限られるだろう。

それと日本支配層が新興宗教に支配されていることを批判するのは別問題である。宗教支配は政治から合理的な判断力を奪い、非合理的・非啓蒙的な判断で国政を誤らせることにつながる日本政治の宿弊である。その点、言わば国定新興宗教でもあった国家神道に誤導された戦前にも通ずるものがある。

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近代革命の社会力学(連載第472回)

2022-08-09 | 〆近代革命の社会力学

六十六 アラブ連続民衆革命:アラブの春

(9)革命の余波
 「アラブの春」の余波は大きく、アラブ諸国のほぼ全域で何らかの騒乱を誘発したが、半革命となったモロッコを含め、前回までに見た諸国を除けば、革命に進展することはなかった。とはいえ、複数の諸国で一定の改革がなされたケースは少なくない。ここでは、そうした革命余波事象を総覧する。
 まず端緒となったチュニジアの隣国アルジェリアでは1990年代に政府軍とイスラーム主義勢力との内戦を収束させたアブデルアジズ・ブーテフリカ大統領の権威主義的な政権に対して、2010年12月から抗議行動が開始された。
 しかし、独立以来の民族解放戦線による支配体制は強固であり、革命に至ることはなかったが、内戦開始の1992年以来、恒常的に敷かれ、人権抑圧の法的根拠となってきた非常事態宣言が解除されたことは一つの成果であった。
 一方、専制君主制が林立するアラビア半島では、ヨルダンで大きな騒乱が見られた。ヨルダンは英国から独立した第二次大戦後に預言者ムハンマドと同族のハーシム家を王家とする立憲君主制が成立しており、湾岸諸国とは異なる状況にあったが、2011年1月から、主として失業や食糧価格高騰など経済問題を要因とする抗議デモが発生した。
 抗議行動は次第に国王権限の縮小など政治的な民主改革も求めるようになり、国王側の譲歩により、議院内閣制や比例代表制による選挙制度の創設などの改革が約束され、収束に向かった。こうした限局性の点でモロッコの半革命と類似する状況であったが、モロッコよりは限定的な規模の事象であった。
 湾岸諸国では、2011年2月以降、バーレーンで騒乱が発生した。バーレーンは専制君主制が林立する湾岸諸国にあって、2002年に国民投票により立憲君主制に移行していたが、人口上は多数派をシーア派が占めていながら、同派が政治的経済的に劣位にあるという特有の社会構成を背景に、主としてシーア派が蜂起した。
 そのため、騒乱は王政の打倒を求める動きを示したことから、バーレーン政府は湾岸協力会議に支援を要請し、2011年3月にサウジアラビアとアラブ首長国連邦(UAE)が合同軍事介入し、鎮圧に乗り出したことで、騒乱は収拾された。
 こうした合同軍事介入は自国への波及を恐れる湾岸諸国の危機感を反映していたが、中心国サウジアラビアやUAEでは極めて厳格な社会統制が敷かれてきた結果、散発的な抗議行動あるいは署名運動にとどまった。
 しかし、クウェートでは社会サービスへのアクセス権を持たない同国特有の無国籍部族民が開始した抗議行動が全国的な規模の抗議行動に発展したものの、最終的には鎮圧された。
 湾岸諸国で最も大規模な騒乱となったのは、サウジと並ぶ典型的な専制君主国オマーンであった。ここでは2011年2月以降、民衆蜂起が革命的な規模のものとなりかけたが、年金引き上げなど経済的な懐柔策や諮問機関に過ぎない議会に立法権を付与するなどの限定的な譲歩をもって収束した。
 なお、イラクでは2003年のイラク戦争を機に長年のバアス党支配体制が崩壊した後、複数政党制に基づく議院内閣制と並立する大統領共和制が樹立されており、西側諸国の軍事介入という外圧を契機に「アラブの春」がある意味で先取りされていたが、治安の悪化や汚職、失業などに抗議するデモが2011年2月から年末にかけて隆起した。
 また、シリア北部では、シリア革命の渦中で政府の支配権が及ばなくなったロジャヴァ地方のクルド人勢力が自由シリア軍からも独立して、アナーキズムに影響された独自の理念に基づく事実上の革命自治体制を樹立したが、このロジャヴァ革命についてはアラブの春の独立した派生事象として別途扱う。

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近代革命の社会力学(連載第471回)

2022-08-08 | 〆近代革命の社会力学

六十六 アラブ連続民衆革命:アラブの春

(8)モロッコ半革命
 2011年に始まる「アラブの春」連続革命は北アフリカを含むアラブ世界の独裁的な共和制国家で継起したが、アラブ世界にはいまだ数多い専制君主制国家にも波及した。その大半は革命に至らない騒乱のレベルで収束したが、北アフリカ唯一の君主制国家モロッコでは革命的な民衆蜂起が生じた。
 ただし、国王の廃位や君主制そのものが廃止される共和革命に進展することはなかったが、最終的に国王側の相当な譲歩を引き出し、憲法改正を通じた一定以上の民主化が達成されたため、この事象は半革命とみなすことができる。
 モロッコでは、17世紀以来、フランス・スペインによる分割統治下での一時的な中断をはさみ、預言者ムハンマドの子孫と伝わる豪族アラウィー家による君主制が続いてきたが、1961年に即位したハッサン2世時代に築かれた抑圧的な専制君主制の仕組みが1999年のハッサン2世没後、王位を継承したムハンマド6世の代でも基本的に維持されていた。
 とはいえ、ムハンマド6世は父王の専制的な統治をある程度緩和し、自由化を進めたものの、「アラブの春」の波及を阻止するには不十分な限定改革であった。その結果、2011年2月(以下、日付はすべて2011年中)に首都ラバトで抗議行動が開始され、3月には全国の主要都市に拡大していった。
 ただし、抗議活動は君主制の廃止ではなく、国王権限の縮小を軸とする民主的な憲法改正、汚職追放、失業問題など、君主制枠内での政治経済改革に重点を置いており、初めから穏健なものであった。
 これはアラブ世界でも最も古い17世紀以来続くアラウィ―王朝への国民的支持が依然根強く、時のムハンマド6世のある程度まで改革的な統治にも一定の信頼があったことを示しており、その意味では、モロッコにおいては初めから完全な革命に進展する土壌はなかったと言える。
 民衆蜂起に直面した国王側の対応もすばやく、3月には、包括的な憲法改正のための委員会の設置と国民投票の実施を公約した。6月に改めて、憲法改正案の詳細と7月の国民投票日程が発表された。
 改憲の軸は従来国王が任命してきた首相が議会多数党派から選出され、首相が閣僚の任命権や議会解散権も有するという西欧諸国における議院内閣制の導入であり、さして真新しいものではないが、長く専制君主制が続いたモロッコでは大きな前進ではあった。
 そのほか、女性に政治的のみならず、市民的・社会的にも平等な地位を保障し、すべての国民に思想・理念の自由を保障するなど、イスラーム世界ではリベラルな内容も盛り込まれた。
 一方で、国王は軍最高司令官や閣僚会議議長、最高安全保障会議議長を兼任し、政治的な実権は保持するという折衷的な内容であり、一部の急進派には不満を残し、国民投票ボイコットの呼びかけもあったが、改憲案は7月1日の国民投票で98パーセントという高率をもって承認された。
 この後、11月に改憲後初の議会選挙が実施され、穏健イスラーム主義の公正発展党が比較第一党となり、同党を中心とする連立政権が発足したことで、モロッコにおける半革命は収束した。
 こうして、モロッコでは穏健な民主化を求める民衆と国王の妥協によって、完全な革命が阻止されたが、国王が象徴的存在に退いたわけではなく、立憲君主制としてはなお権威主義的な面を残していることや、汚職や失業など経済問題は積み残されているため、革命へのマグマは消滅し切っていない。

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比較:影の警察国家(連載第65回)

2022-08-07 | 〆比較:影の警察国家

Ⅴ 日本―折衷的集権型警察国家

1‐3‐1:自衛隊保秘組織の政治警察機能

 防衛省・自衛隊系統の警察組織としては、後述の警務隊を別とすれば、法的にも警察として機能する組織は存在していない。しかし、保秘組織である自衛隊情報保全隊は、その運用上政治警察としての機能を持つ。
 情報保全隊は、2003年に陸海空三自衛隊それぞれに設置された情報保全隊を前身とする。その任務は防衛秘密の保持にあり、とりわけ自衛隊に対する外部からの働き掛け等から部隊等を保全すること、つまりは防諜を最重要任務とした。
 そうした防諜任務としては外国諜報機関によるスパイ活動の監視が典型例であるが、これが拡大されて、自衛隊の活動に反対する野党や反戦運動、ジャーナリスト等の動静監視にも及び、実際、自衛隊も参加したイラク戦争に関連して、陸上自衛隊の情報保全隊がそうした監視活動を実施していたことが2007年に発覚した。
 こうした政治的監視活動は公安警察や法務省系の公安調査庁と並び、防衛省・自衛隊系の情報保全隊が言わば三本目の政治警察としての機能を果たしていることをうかがわせるものである。
 しかし、如上の拡大的な監視活動が表面化したにもかかわらず、情報保全隊は制度改正により自衛隊の常設統合部隊として再編され、2009年以降、1000人規模の要員を擁する防衛大臣直轄の自衛隊保全隊として強化されるに至った。
 組織再編後の情報保全隊にも基本的任務は継承されており、むしろ常設統合部隊として政治警察機能も強化されたと言える。
 ただし、冒頭でも述べた通り、自衛隊情報保全隊は法的に警察として活動することはできないため、関係者の逮捕等の強制捜査は許されず、対象に対する動静監視が主となるが、それだけに法に基づかないプライバシー侵害の危険が常在する。

1‐3‐2:自衛隊警務隊の位置づけ

 多くの諸国の軍には軍人の犯罪を取り締まる軍事警察として憲兵隊が組織されるが、戦前の日本にも陸軍に憲兵制度が存在した(海軍にも太平洋戦争中に海軍特別警察隊が創設されたが、その権限は占領地に限局された)。
 しかも、陸軍憲兵は本来任務を超え、司法警察として一般国民を対象とした治安維持活動にも及んだため、反体制運動や反戦運動の弾圧にも動員された。そのため、旧陸軍憲兵隊は内務省系の特別高等警察に次ぐ政治警察として活動したが、敗戦後の日本軍解体に伴い、陸軍憲兵制度も当然ながら廃止となった。
 戦後創設された自衛隊においては、陸海空三自衛隊の警務官が「憲兵」に相当し、陸海空の各自衛隊に警務隊が設置されている。
 しかし、自衛隊警務官は一般市民を対象とする警察権は持たないため、旧陸軍憲兵とは異なる制度である。そのため、警務隊よりはむしろ上述の情報保全隊が機能的政治警察としての性格を帯びることになる。
 ただし、今後の安全保障情勢次第で、情報保全隊と連動して保全隊が対象とする一般市民の摘発に警務隊を動員できるような法改正が行われれば、警務隊の旧憲兵化という事態が生じることにもなり、注視が必要である。

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おばあちゃんの挑発的卒業旅行

2022-08-06 | 時評

NATOが中国を仮想敵と見定めたのに続き、今度はアメリカのナンシー・ペロシ下院議長の訪台により、中国が台湾への軍事的威嚇を強めたことで、第二次冷戦はいよいよ本格化したと見てよいであろう。

それにしてもなぜ、この時期に米下院議長の訪台なのか。

大統領継承順位第二位の下院議長によるこの時期の訪台が「一つの中国」テーゼに固執する中国を刺激し、緊張を高めることを理解していなかったとすれば、あまりに外交音痴であるし、理解しながらあえて訪台したとすれば政治的な挑発行動である。

ワシントンの古株で政治に長けたペロシ氏にとって名誉な推測は後者であるから、後者の前提に立って改めて今般訪台の狙いを我流に推測すると━

御年82歳のペロシ氏は来年の退任が見込まれているため、言わば「卒業旅行」として訪台を選んだように見える。物議を醸し、世界の注目を集めるからである。職業政治家は注目を引くためならどんなことでもするものだ。

一方、御年79歳のバイデン米大統領も支持率低迷が続き、今年11月予定の下院中間選挙では与党民主党の劣勢が予想されていることもあり、民主党の下院議長をあえて台湾に送り込み、中国を挑発して緊張を高める一種の瀬戸際政策で政権浮揚を図ろうという政治的打算も窺える。

立法・行政双方のトップ老人の思惑が一致しての「卒業旅行」となった―。そのように見立てることができる。第二次冷戦を回避するどころか、助長することで個人の実績作りや政権浮揚に利用する。党派政治家の考えそうなことである。

当然ながら、西側では中国の軍事的威嚇を非難する合唱が起きているが、挑発による場合は挑発した側が第一次的な責めを負う。現実に台湾海峡で軍事衝突が起きれば、それは「おばあちゃんの挑発的卒業旅行」が招いたことになる。

しかし、今や西側は衝突を望んでいるようにすら見える。日本も例外でなく、「台湾有事」は故・安倍氏が進めた安保法制の最初の発動事例となり得るので、手ぐすね引いて待っているかのようである。

「おばあちゃんの挑発的卒業旅行」は、平和を希求する世界民衆にとっては、迷惑極まる旅行であった。

 

[付記]
日本共産党が中国の台湾への軍事的威嚇を非難するのは理解できるが(参照声明)、それがペロシ氏の挑発的訪台を契機としていることを批判しないのは片面的であり、日本を含む西側諸国の公式立場と径庭ないものである。

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近代革命の社会力学(連載第470回)

2022-08-05 | 〆近代革命の社会力学

六十六 アラブ連続民衆革命:アラブの春

(7)シリア(未遂)革命

〈7‐4〉革命勢力の多岐分裂と革命の挫折
 「アラブの春」の一環としてのシリア革命のピークをなすのは、2012年7月の自由シリア軍による大攻勢を経て、同年11月に自由シリア軍を軍事組織として位置づける新たな革命組織としてシリア革命・反体制諸派連合(以下、連合)が樹立された時と言える。
 しかし、逆説的なことに、これを機に革命は成功ではなく、かえって挫折に向けて転回していくこととなる。そのような経過を辿った要因として、国民連合・自由シリア軍ともに明確な理念を欠き、反アサド体制の一点のみで一致した諸勢力・グループの寄せ集めで成り立っていたことがある。
 連合について言えば、この組織は大小の反体制組織及び個人が加入する寄合所帯であるうえに、カタールのドーハで結成され、国外で活動するある種の亡命政府の性格を有し、シリア国内に十分な支持基盤を持たない。
 また連合の軍事組織として位置づけられた自由シリア軍にしても同様で、政府軍離脱者を中核とする諸々の武装勢力・グループの寄せ集めで成り立っており、創設者のアサアド大佐も強力な求心力を欠いていた。
 一方で、自由シリア軍が宗教勢力とのつながりを持っていたことは短期間で勢力を拡大する成功要因であったと同時に、イスラーム過激派の浸透という新たな問題を抱え込む要因ともなった。
 実際、自由シリア軍はシリア(及びレバノン)におけるアル‐カーイダ系組織であるアル‐ヌスラ戦線と共闘するようになっており、このことは同組織をテロ組織とみなす欧米諸国の自由シリア軍への支援を躊躇させる要因となった。
 元来、指揮系統が統一されず混乱ぎみの自由シリア軍に代わり、イデオロギー的な忠誠心で結ばれ、作戦面の統一も取れたイスラーム過激組織が、内戦の長期化に伴い反体制勢力の中核にのし上がっていった。
 2013年に入ると、国民連合・自由シリア軍の対抗力が一層弱化する中、政府側は父アサドの出身部門でもある強力な空軍をベースに、化学兵器まで投入した苛烈な反乱鎮圧作戦を展開するようになり、次第に優勢を回復していく。
 その結果、自由シリア軍は2013年末にはシリア国内の拠点を喪失する一方、シリア政府の実効支配が及ばなくなっていた北部には、隣国イラクに登場した新たな過激組織・イスラーム国(IS)が侵入し、イスラーム国家の樹立を宣言するなど、革命運動は実質的な崩壊に向かう。
 2014年6月に内戦渦中でアサド大統領が三選を果たしたのに続き、8月にはISが北部のラッカを制圧したことは、革命の挫折を象徴する出来事となった。革命派が勢力を回復する可能性も残されてはいるが、ロシア軍の支援も受けて強化されたアサド体制打倒の現実的可能性は遠のいたと言える。
 こうした結末は、アサド一族体制成立以前の1960年代から半世紀以上にわたって続くバアス党支配体制の岩盤化された支持基盤と、その反面としての野党・反体制勢力の未発達・断片化という現代シリアの政治社会構造の特徴から説明できるであろう。

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松本清張没後30周年

2022-08-04 | 時評

今日で、作家・松本清張没後30周年である。30年と言えば一世代であるから、清張もすでに一世代前の昭和の作家ということになるが、依然として主要作の文庫本が広く流通し、清張作品をベースとするドラマなども制作されているところを見ると、没後一世代を経ても息長く読み継がれている稀有の作家である。

筆者もかつて清張文学を愛読した時期があったが、その頃は娯楽小説的に上滑りな読みをしていたように思える。今、改めて読み直してみると、清張は戦後日本で最高のリアリズム文学の生産者ではなかったかと感じる。

リアリズムといってもいわゆるプロレタリア文学とは明確な一線を画した、階級横断的な普遍性と娯楽性も備えた「反骨リアリズム」といったものである。あえて欠点―見方によっては長所―を言えば、リアル過ぎて耽美さゼロ、砂を噛むような文体になることが多い点だろうか。

松本文学は時事的あるいは歴史的な社会問題に切り込む社会批判(時に風刺)を伴った啓発性と娯楽性とを兼ね備えている点でも稀有と言える。通常、小説に啓発性を持たせれば文章は説教調となり、娯楽性を追求すれば啓発性は脇に置かざるを得ず、両要素の両立は困難なはずだからである。

その意味で清張を「推理作家」とみなすのは、正確と思えない。まして「ミステリー作家」ではない。「社会派推理作家」という呼び方もあるようだが、清張作品はそのジャンルが広汎かつ総合的であり、いちおう推理小説に分類できる作品であっても、そこには何らかの社会批判が込められており、単なる推理小説以上のものである。

清張作品が描く舞台は清張全盛期の昭和30乃至40年代が中心だが、その舞台は昭和中期の懐かしくもまだ貧困が遍在していた時代の香りを放つと同時に、主題的には今日性を失っていない。没後30年を経ても多くの作品がまだ読み継がれ、TVドラマ化も続いてきたゆえんであろう。

稀有の作家であり、昭和の文豪―文豪と呼び得る最後の一人かもしれない―に含めてよい存在である。従って、清張の推理小説ジャンルの部分的な継承作家はあっても、歴史小説やノンフィクション作品をも含めた真の継承者と呼び得る日本語作家はこれまでのところ存在しない。

海外に取材し、外国を舞台にした作品も少なくなく、広い国際的視野を備えていた点でも、日本語作家としては稀有の存在であり、海外でももっと翻訳紹介される価値があるだろう。その文体は平明かつ論理的であるため、英語をはじめ日本語と系統を異にする外語への翻訳はそう困難ではないはずである。

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近代革命の社会力学(連載第469回)

2022-08-04 | 〆近代革命の社会力学

六十六 アラブ連続民衆革命:アラブの春

(7)シリア(未遂)革命

〈7‐3〉武装革命組織・自由シリア軍の結成と展開
 アサド政権が一党支配体制の放棄という歴史的な譲歩を示した後も、政権移行の協議は進まない中、2011年7月末、シリア政府軍を離脱したリアード・アル‐アサアド空軍大佐が反体制武装組織・自由シリア軍の結成を発表した。
 アサアド大佐はこれより前、同じくシリア軍離脱将校によって結成されていた自由将校団運動に加入していたが、自由将校団運動は世俗主義的な革命派将校の運動体であったのに対し、自由シリア軍はイスラーム主義のムスリム同胞団との関わりが強いという相違があった。
 その点、イスラーム主義との結びつきから宗教保守勢力を取り込むことに成功した自由シリア軍は結成から短期間でメンバーを急速に殖やし、9月には自由将校団運動も自由シリア軍に合流することとなった。
 自由シリア軍は自らの性格を反体制運動の武装部門と規定し、その目標を軍事的手段によってアサド体制を打倒することに置く武装革命組織としての性格を強調しており、平和的手段による体制変革には否定的であった。
 一方で、2011年9月にはムスリム同胞団を含む多様な野党勢力を束ねたシリア国民評議会(以下、評議会)がトルコのイスタンブルで結成され、アサド体制崩壊後の政権受け皿が用意された。
 評議会は、2012年1月に自由シリア軍と提携し、その活動を承認したが、平和的闘争を旨とする評議会は武器の提供はせず資金提供にとどめるなど、両者の関係性は微妙で、革命武装組織と革命行政機構との遊離状態が生じたことはシリア革命の先行きに不安を残した。
 そうした中、2012年に入ると、政権側は3月、反体制派の拠点となっていた西部の都市ホムスを包囲・制圧したうえ、5月には新しい政党法に基づく複数政党制による議会選挙を実施する。この選挙では多くの野党がボイコットする中、バアス党を中心とする従来からの翼賛与党連合・国民進歩戦線が議席を減らしながらも勝利する結果に終わった。
 こうして政権側が軍政両面で優勢に傾くと、7月以降、自由シリア軍はイラクやトルコとの国境地帯で大攻勢を開始し、イラク国境地帯を占領するとともに、首都ダマスカスでも政府側弾圧作戦の指揮所である保安司令本部に対する爆弾テロを実行し、国防相をはじめ、軍や保安機関の高官4人を殺害した。
 一方で、自由シリア軍は人口上シリア最大の都市アレッポでも攻勢をかけ、他の武装組織と協調しながら市内東部を制圧した。しかし西部は政府軍が押さえ、補給路を確保していたため、アレッポは以後、政府軍との間で激しい攻防が繰り広げられる最大の激戦地となった。
 こうして、平和的な革命の可能性は潰え、内戦の様相が強まった。これに対し、トルコを含む西側が自由シリア軍に肩入れする一方、アサド政権は旧ソ連時代から友好関係にあるロシアに依存するようになり、代理戦争の性格も増していった。

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ガンマン合衆国の「正義」とは?

2022-08-03 | 時評

アメリカのバイデン大統領が1日、9.11事件を計画実行したとされる国際テロ組織アル・カーイダの二代目指導者アイマン・ザワヒリ容疑者を殺害したことを公表した(作戦実行は先月31日)。

2011年5月に当時のオバマ政権が実行した初代指導者ウサマ・ビン・ラディン容疑者の殺害ほど話題にならない二番煎じではあったが、組織の二代の指導者をいずれも殺害したことは、政権が代わっても変わらぬアメリカという国の本質を示す出来事と言える。

どちらの殺害に際しても、両大統領は「正義がなされた」と豪語してみせた。容疑者として国際手配されていた人物を殺害することが「正義」であるというのは理解し難いロジックであるが(オバマが憲法学者でもあることを考えれば猶更)、これがガンマン国家アメリカの対処法なのである。

無法の開拓時代が遠い過去となっても、アメリカでは悪人をその場で殺すことは正義であるから、国内で凶悪犯を警察官が現場で射殺するのと同様の感覚で、凶悪な国際テロリストを殺しても、何ら批判は受けない。

実際、アル‐カーイダの両指導者はテロ犯罪の被疑者として国際手配されていたからには、本来なら捜査機関が身柄を拘束したうえで、法廷に起訴すべき存在であるはずのところ、アメリカが軍やCIAなどの軍事・諜報機関主導の作戦で臨むのは、初めから逮捕でなく、殺害を狙っているからにほかならない。

要するに、裁判なしの処刑に等しいことであり、端的に言えば暗殺である。そうしたやり方を「正義」として正当化するのは、まさにテロ行為を「正義」と呼ぶ組織と相似形の発想によるものである。無法行為も国家機関が実行すれば合法になるという手品は存在しない。他のテロ組織に対しても同様の作戦を展開し続けるアメリカも、暗殺作戦のアル・カーイダ(=大本営)と化している。

もちろん、相手は重武装しており、逮捕に抵抗し応戦してくる可能性が高く、そもそも生け捕りにすることは技術的に至難であるという理屈にも一理とは言わず半理くらいはあろうが、組織の頂点にいた人物を殺害してしまえば、9.11のような空前規模のテロ犯罪がどのように計画・実行されたのかが永遠の謎となってしまう。

9.11事件をめぐってはいまだにアメリカによる自作自演説のような陰謀論が流布されているが、陰謀論の多くは政府が真相究明に消極的な事件・事変をめぐって生じる。二人の首謀容疑者を相次いで殺害した9.11事件はその典型例であり、おそらくこの先、永遠に陰謀論が生き続けるだろう。

真実を闇に葬るアメリカのガンマン的手法を正すには、国際社会が暗殺作戦を黙認することなく、批判し、抗議することである。それなくしては、アメリカが自浄的に自らの習慣を正すことはないだろう。

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近代革命の社会力学(連載第468回)

2022-08-02 | 〆近代革命の社会力学

六十六 アラブ連続民衆革命:アラブの春

(7)シリア(未遂)革命

〈7‐2〉民衆蜂起の開始と展開
 シリアでは、「ダマスカスの春」の後、再び抑圧統制が強化され、表面上は安定が維持されたとはいえ、父アサド政権時代から開始されていた市場経済化による格差拡大や青年層の高失業率など、社会経済的な面での不満は相当に鬱積していた。
 とはいえ、父アサド時代に構築された多重的な保安組織による監視網は有効に機能し、大衆の間には政治的沈黙が習慣化されていたこともあり、「アラブの春」のシリアへの波及はやや時間的に遅れたが、2011年の1月末(以下の年月日はすべて2011年中)には散発的ながらも抗議行動が始まっていた。
 転機となるのは、3月初旬、シリア南端の町ダルアーで、15人の学生が反政府運動への参加のかどで拘束され、拷問を受けたというシリアではさして珍しくもない出来事を引き金に、抗議行動が全国の主要都市に拡大された時である。
 特に、ダルアーでは、政治犯の釈放や半世紀近く敷かれてきた非常事態令の解除など、「ダマスカスの春」で知識人が提起した政治的要求事項を掲げる民衆蜂起が発生したことは、シリアにおける革命の端緒となった。
 これ以降、4月には首都ダマスカスでも大規模な抗議行動が発生し、全国的な騒乱への急速な展開が見られたが、これに対し、政権側は治安部隊を投入して暴力的な鎮圧を展開するとともに、譲歩による慰撫を図る巧妙な両面作戦を見せた。
 そうした慰撫策として最初のものは、48年の長きに及んだ非常事態令の解除と政治犯を裁く不公正な最高国家保安裁判所の廃止であった。これらは父アサド時代から政治的抑圧の法的な武器となっていたものであり、かねてより知識人グループも要求していたところであった。
 しかし、これだけではもはや抗議行動を鎮静化することは困難になっており、騒乱は収束せず、政権側は第二弾の慰撫策として、憲法改正を含む改革を議題とする反政府勢力との対話を打ち出した。
 しかし、7月10日に開始されたこの対話には反政府勢力の多くが欠席し、充分な討議を行うことはできなかったが、憲法で定められたバアス党の指導性条項の撤廃という反政府側の要求事項は政権側に受け入れられ、月末には複数政党制を認める新法が制定された。
 ここまでの展開は1980年代末からの中・東欧における脱社会主義革命の展開状況とも類似しているが、中・東欧で成功した革命では野党勢力との対話が制度化され、非武装革命への展開が見られたのに対し、シリアではそうした展開が見られなかった。
 そうならなかったのは、政権側に権力放棄の意思がなく、武力鎮圧方針を維持していたことに対抗して、反政府勢力も武装組織を結成し、武装革命へ進展する力学が働いたためであり、そのことがやがて熾烈な内戦状況を招来する動因となる。

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近代革命の社会力学(連載第467回)

2022-08-01 | 〆近代革命の社会力学

六十六 アラブ連続民衆革命:アラブの春

(7)シリア(未遂)革命

〈7‐1〉権力世襲と体制内改革の挫折
 シリアでは、1970年のクーデターでバアス党支配体制の新たな指導者となったハーフィズ・アル‐アサドが個人崇拝的な独裁体制を確立していったが、ハーフィズは政権掌握30周年となる2000年6月に急死した。
 その結果、すでに後継者として内定していた次男でバッシャールが新大統領に就任した。本来は職業軍人だった長男が「本命」の後継者であったところ、彼は1994年に自動車事故で早世していたため、眼科医出身の次男バッシャールが繰り上げで後継者となったにすぎなかった。
 しかし、このような王朝並みの繰り上げ世襲は、共和制かつ社会主義を標榜する国家でありながら、アサド体制が事実上の王朝と化していたこと、特にアサド体制以前からの支配政党・バアス党がアサド家の一族政党に変質していたことを示す事象であった。
 とはいえ、世襲はすでに周到に準備された既定路線であったため、当時の憲法上の大統領の適格年齢(40歳以上)を修正してまで、当時34歳のバッシャールが権力を継承できるようにセットされたのであった。
 こうして、権力世襲はつつがなく実現されたが、バッシャールは権力継承前から汚職撲滅キャンペーンを開始しており、多くの大物政治家を摘発・失権させていたが、大統領就任後は、こうした改革政治を拡大し、父の厳格な抑圧政策を緩和する自由化も開始した。
 バッシャール政権下でのこうした一連の自由化は「ダマスカスの春」と呼ばれる一時期を作った。この時期、シリアの知識人らは「サロン」を結成して、それまでタブーだった様々な政治・社会問題について討議し、00年9月には有力知識人99人による「99人声明」が提起された。
 この声明は恒常的な非常事態令の廃止や、政治犯の釈放、言論・集会の自由などの民主化を求めていた。これはさらに翌年1月の知識人1000人による「1000人声明」としてより具体化された。バッシャールもこうした在野の声に答え、政治犯収容所の閉鎖やイスラーム主義のムスリム同胞団関係者の釈放などシリア体制としてはかなり大胆とも言える自由化措置を行った。
 しかし、こうした「改革」も束の間だった。2001年に入ると、政権は声を上げ始めた批判的知識人の投獄やサロンの強制閉鎖などの弾圧措置を開始し、「ダマスカスの春」は一年で終息した。
 このバッシャール政権初期の「改革」は果たして真摯な動機に基づく「改革」だったのか、それともバッシャールが脆弱な世襲の権力基盤を固めるべく、バアス党古参幹部に仕掛けたソフトな「粛清」だったのかは微妙なところである。
 権力継承初期の微妙な時期を考慮すれば、両要素が混在していた可能性はあるが、特に自由化措置が想定を超えて在野の活動を触発したことにバッシャール自身が不安を抱き、体制護持のため、再び統制強化に方針を切り替えたものとも考えられる。
 とはいえ、「ダマスカスの春」の余波はさらに継続し、05年にはシリア政府の権威主義的な姿勢を批判する知識人による「ダマスカス宣言」が改めて出された。こうした動きは裏を返せば、体制批判を完全に封じ込めていた父親ほどの絶対的権威を持てない息子の世襲政権の弱さを示していた。
 「ダマスカスの春」は後年の「アラブの春」とは本質的に異なり、体制内改革とそれに刺激された知識人主体の民主化運動ではあったが、「アラブの春」へ向かう小さな芽吹きのような意義を持ったとも言える。

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