ザ・コミュニスト

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近代革命の社会力学(連載第467回)

2022-08-01 | 〆近代革命の社会力学

六十六 アラブ連続民衆革命:アラブの春

(7)シリア(未遂)革命

〈7‐1〉権力世襲と体制内改革の挫折
 シリアでは、1970年のクーデターでバアス党支配体制の新たな指導者となったハーフィズ・アル‐アサドが個人崇拝的な独裁体制を確立していったが、ハーフィズは政権掌握30周年となる2000年6月に急死した。
 その結果、すでに後継者として内定していた次男でバッシャールが新大統領に就任した。本来は職業軍人だった長男が「本命」の後継者であったところ、彼は1994年に自動車事故で早世していたため、眼科医出身の次男バッシャールが繰り上げで後継者となったにすぎなかった。
 しかし、このような王朝並みの繰り上げ世襲は、共和制かつ社会主義を標榜する国家でありながら、アサド体制が事実上の王朝と化していたこと、特にアサド体制以前からの支配政党・バアス党がアサド家の一族政党に変質していたことを示す事象であった。
 とはいえ、世襲はすでに周到に準備された既定路線であったため、当時の憲法上の大統領の適格年齢(40歳以上)を修正してまで、当時34歳のバッシャールが権力を継承できるようにセットされたのであった。
 こうして、権力世襲はつつがなく実現されたが、バッシャールは権力継承前から汚職撲滅キャンペーンを開始しており、多くの大物政治家を摘発・失権させていたが、大統領就任後は、こうした改革政治を拡大し、父の厳格な抑圧政策を緩和する自由化も開始した。
 バッシャール政権下でのこうした一連の自由化は「ダマスカスの春」と呼ばれる一時期を作った。この時期、シリアの知識人らは「サロン」を結成して、それまでタブーだった様々な政治・社会問題について討議し、00年9月には有力知識人99人による「99人声明」が提起された。
 この声明は恒常的な非常事態令の廃止や、政治犯の釈放、言論・集会の自由などの民主化を求めていた。これはさらに翌年1月の知識人1000人による「1000人声明」としてより具体化された。バッシャールもこうした在野の声に答え、政治犯収容所の閉鎖やイスラーム主義のムスリム同胞団関係者の釈放などシリア体制としてはかなり大胆とも言える自由化措置を行った。
 しかし、こうした「改革」も束の間だった。2001年に入ると、政権は声を上げ始めた批判的知識人の投獄やサロンの強制閉鎖などの弾圧措置を開始し、「ダマスカスの春」は一年で終息した。
 このバッシャール政権初期の「改革」は果たして真摯な動機に基づく「改革」だったのか、それともバッシャールが脆弱な世襲の権力基盤を固めるべく、バアス党古参幹部に仕掛けたソフトな「粛清」だったのかは微妙なところである。
 権力継承初期の微妙な時期を考慮すれば、両要素が混在していた可能性はあるが、特に自由化措置が想定を超えて在野の活動を触発したことにバッシャール自身が不安を抱き、体制護持のため、再び統制強化に方針を切り替えたものとも考えられる。
 とはいえ、「ダマスカスの春」の余波はさらに継続し、05年にはシリア政府の権威主義的な姿勢を批判する知識人による「ダマスカス宣言」が改めて出された。こうした動きは裏を返せば、体制批判を完全に封じ込めていた父親ほどの絶対的権威を持てない息子の世襲政権の弱さを示していた。
 「ダマスカスの春」は後年の「アラブの春」とは本質的に異なり、体制内改革とそれに刺激された知識人主体の民主化運動ではあったが、「アラブの春」へ向かう小さな芽吹きのような意義を持ったとも言える。

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