四 近代科学と政教の相克Ⅱ
近代科学は17世紀の最初期に地動説をめぐり宗教政治に巻き込まれ、抑圧されたが、19世紀以降は、進化論が大きな論争の的となる。地動説が天文・物理学分野のパラダイム転換をもたらす画期的な科学理論だったとすれば、進化論は生物学分野におけるパラダイム転換をもたらす画期的科学理論であったが、それは聖書における天地創造説と直接に対立するため、相克関係はより深刻なはずであった。
旧進化論者ラマルクの不遇
今日単に「進化論」と言えば、英国の博物学者チャールズ・ダーウィンが提唱した自然選択説を指すが、このような新しい進化論の登場には、フランス革命期の博物学者ジャン‐バティスト・ラマルクが提唱した用不用説が先行していた。
ラマルクは「生物学」という用語そのものの創案者でもあり、従来、生きとし生けるものすべてを神が創造したと思念する天地創造説(創造論)が支配的で、生命体を科学的な究明対象とすること自体タブーであった状況を打破した革新的な科学者であった。
ただし、ラマルクの進化論とは、生物がよく使う器官は発達し、使わない器官は退化するという用不用の獲得形質が子孫に遺伝すると論じる素朴な理論であった、このような古い進化論はダーウィンの進化論によって現在では克服され、失効している。
ラマルク自身は神を創造主とするキリスト教信仰を捨ててはいなかったが、用不用論にも創造論に抵触する面があるため、創造論者からの攻撃を受けることになった。中でも時の皇帝ナポレオンが熱心な創造論者であったため、ラマルクを迫害し、彼が創刊した気象学の学術誌まで廃刊に追い込まれた。
ラマルクはまた、プロテスタントながら同じく創造論者の生物学者で、ナポレオンからも重用されてフランス科学界の重鎮となっていたジョルジュ・キュヴィエからも攻撃を受け、晩年は研究活動もままならず、貧困状態に置かれた。
ちなみに、キュヴィエ自身は生物の変遷を創造論と矛盾しないよう天変地異の影響で説明する天変地異論者であった。天変地異論も今日では克服されているが、キュヴィエは実証的な古生物学や比較解剖学の祖としては名を残す科学者で、皮肉にもその業績はダーウィンの進化論に影響を及ぼしたと言われる。
ラマルクは地動説のガリレイのように宗教裁判にかけられることこそなかったが、カトリック保守主義のフランスでは不遇をかこつこととなった。その点、19世紀生まれの新進化論者ダーウィンは、異なる時代と環境に恵まれていた。