六十六 アラブ連続民衆革命:アラブの春
(9)革命の余波
「アラブの春」の余波は大きく、アラブ諸国のほぼ全域で何らかの騒乱を誘発したが、半革命となったモロッコを含め、前回までに見た諸国を除けば、革命に進展することはなかった。とはいえ、複数の諸国で一定の改革がなされたケースは少なくない。ここでは、そうした革命余波事象を総覧する。
まず端緒となったチュニジアの隣国アルジェリアでは1990年代に政府軍とイスラーム主義勢力との内戦を収束させたアブデルアジズ・ブーテフリカ大統領の権威主義的な政権に対して、2010年12月から抗議行動が開始された。
しかし、独立以来の民族解放戦線による支配体制は強固であり、革命に至ることはなかったが、内戦開始の1992年以来、恒常的に敷かれ、人権抑圧の法的根拠となってきた非常事態宣言が解除されたことは一つの成果であった。
一方、専制君主制が林立するアラビア半島では、ヨルダンで大きな騒乱が見られた。ヨルダンは英国から独立した第二次大戦後に預言者ムハンマドと同族のハーシム家を王家とする立憲君主制が成立しており、湾岸諸国とは異なる状況にあったが、2011年1月から、主として失業や食糧価格高騰など経済問題を要因とする抗議デモが発生した。
抗議行動は次第に国王権限の縮小など政治的な民主改革も求めるようになり、国王側の譲歩により、議院内閣制や比例代表制による選挙制度の創設などの改革が約束され、収束に向かった。こうした限局性の点でモロッコの半革命と類似する状況であったが、モロッコよりは限定的な規模の事象であった。
湾岸諸国では、2011年2月以降、バーレーンで騒乱が発生した。バーレーンは専制君主制が林立する湾岸諸国にあって、2002年に国民投票により立憲君主制に移行していたが、人口上は多数派をシーア派が占めていながら、同派が政治的経済的に劣位にあるという特有の社会構成を背景に、主としてシーア派が蜂起した。
そのため、騒乱は王政の打倒を求める動きを示したことから、バーレーン政府は湾岸協力会議に支援を要請し、2011年3月にサウジアラビアとアラブ首長国連邦(UAE)が合同軍事介入し、鎮圧に乗り出したことで、騒乱は収拾された。
こうした合同軍事介入は自国への波及を恐れる湾岸諸国の危機感を反映していたが、中心国サウジアラビアやUAEでは極めて厳格な社会統制が敷かれてきた結果、散発的な抗議行動あるいは署名運動にとどまった。
しかし、クウェートでは社会サービスへのアクセス権を持たない同国特有の無国籍部族民が開始した抗議行動が全国的な規模の抗議行動に発展したものの、最終的には鎮圧された。
湾岸諸国で最も大規模な騒乱となったのは、サウジと並ぶ典型的な専制君主国オマーンであった。ここでは2011年2月以降、民衆蜂起が革命的な規模のものとなりかけたが、年金引き上げなど経済的な懐柔策や諮問機関に過ぎない議会に立法権を付与するなどの限定的な譲歩をもって収束した。
なお、イラクでは2003年のイラク戦争を機に長年のバアス党支配体制が崩壊した後、複数政党制に基づく議院内閣制と並立する大統領共和制が樹立されており、西側諸国の軍事介入という外圧を契機に「アラブの春」がある意味で先取りされていたが、治安の悪化や汚職、失業などに抗議するデモが2011年2月から年末にかけて隆起した。
また、シリア北部では、シリア革命の渦中で政府の支配権が及ばなくなったロジャヴァ地方のクルド人勢力が自由シリア軍からも独立して、アナーキズムに影響された独自の理念に基づく事実上の革命自治体制を樹立したが、このロジャヴァ革命についてはアラブの春の独立した派生事象として別途扱う。