金魚売る店にはじまる朝の市 三浅馨三
今日は関東支部の吟行句会、かっぱ橋道具街~入谷鬼子母神
の朝顔市へ、最終日とあってかなりの人出であった。
途中一葉記念館の仮設展示場へ寄り道、充実の一日になる。
一葉の遺筆涼しき墨づかい
チンドンも来て下町の星まつり
朝顔の紺の萎へゐる午後の市
葉ぶりよき鉢より売られ朝顔市
もう1句は数合わせの投句、見事に選にもれた。
金魚売る店にはじまる朝の市 三浅馨三
今日は関東支部の吟行句会、かっぱ橋道具街~入谷鬼子母神
の朝顔市へ、最終日とあってかなりの人出であった。
途中一葉記念館の仮設展示場へ寄り道、充実の一日になる。
一葉の遺筆涼しき墨づかい
チンドンも来て下町の星まつり
朝顔の紺の萎へゐる午後の市
葉ぶりよき鉢より売られ朝顔市
もう1句は数合わせの投句、見事に選にもれた。
七夕竹惜命の文字隠れなし 石田波郷
今日の読売新聞「編集手帳」から
国語辞典を幾つかひらいても惜命はのってない
命をいとおしむ。熟語にして名づけるまでもない、
誰もが備えもつ感情だろう。
病気などの厄災に命が脅かされとき、平生は意識しないでいた
感情を見つめ、言葉が生まれる。
結核を患う俳人石田波郷は1950年(昭和25年)病床詠を句集に
編んだ。「七夕竹惜命の文字隠れなし」療養所の笹飾りに、その
言葉を見たのだろう。今宵軒端に笹は飾らずとも、病める肉親の、
あるいは自身の「惜命」を胸の内にしたためる方もあるに違いない。
病院がわが家のごとし瓜刻み
清瀬よりはたた神連れ帰りけり 石田あき子
入谷鬼子母神の朝顔市がはじまりました。
7月6日~8日までやく120もの出店が出ています。
朝顔市夜明けし声の瑞々しい 岸風三樓
おしめりや朝顔市に人減らず 石川桂郎
地下足袋の紺来て朝顔市開く 島崎省三
鬼灯市朝顔市と指折らる 八木林之介
こむらさき(赤塚植物園)
独立記念日空にボンボン爆すものあり 寒暑
先日のブログでは連衆のお句に自分ならという提案をしました。
今日は自句自解と反省をします。
束とけば真紅の薔薇のそむきあふ
今まで詠みたくていて詠めなかった題材で、まだ推敲の余地がある
のかも、束という括りを解かれた時、花も人の心もその目的からも
解かれあるがままの姿を表現する。そむきあう程ではなくとも・・・・
手酌なる通夜の厨の冷し酒
通夜には清めという酒が振舞われる。通夜の客の途切れた頃の厨
御魂との思い出や悔しさに胸が熱くなる。
一杯の冷し酒がお別れの杯。清めなどではない。
御魂は崇高だから。
兄が亡くなったのは4月、冷し酒ではなかったが冷蔵庫に入ってい
た飲みかけの酒だった。
くるぶしにことに風ある白絣
志様の講評に感服しました。
浴衣も絣もそれほど涼しいものではない。涼しさから言えば
短パンにTシャツだろう。働き者だった祖父の姿を思い浮かべ
ながら詠みました。
賄ひの白衣涼しき勝手口
私の少年期を過ごした両国の一景。近くに仕出しの料理屋さん
が有った。勝手口は私たちの遊び場の小路地。もくもくと野菜の
皮を剥いたり、野菜の泥を洗っている。どう見ても中学生のような
顔立ち。その見習の着ている白衣は汚れた路地にはとても
新鮮に思えた。涼しいと感じたのはその少年のぼうず頭だった
かもしれない。
少し濃き鉛筆選び巴里祭
良くも悪くも机上俳句。中学2年になった頃姉が銀座のシャンソン
喫茶「銀巴里」へ連れていってくれた。私のとっての巴里祭は
銀座だった。行ったことのない巴里への憧れは絵なのか一行詩
なのか、そこから鉛筆への発想になりました。
今月も多くの選を入れて頂きました。連衆に感謝です。
こうして自分の拙句を並べて眺めると、甘さも目立ちます。
そして前回と大きく違ったのは詠みたいものが詠めたという
ことです。
写生は大切なものですが、俳句は詩であることを自分の中で
再確認できました。
投句は勿論ですが、選評は俳句を学ぶ者にとっては一番
重要です。