村上春樹はなぜ「いま」この本を世に送り出したのか。
その答えの一部は、やや唐突に挿入された「第8回 学校について」にあるだろう。画一的な学校システムの歪みの中で命を落としていく子どもたち。その歪みは日本社会の歪みそのものであり、必然的に福島原発事故にも言及していく。「(通常の想定を超えた自然災害が)致命的な悲劇の段階にまで推し進められたのは、現行システムの抱える構造的な欠陥のためであり、それが生みだしたひずみのためです。システム内における責任の不在であり、判断能力の欠落です。他人の痛みを「想定」することのない、想像力を失った悪しき効率性です」「おそらくみなさんもおおむね同じような思いを抱いておられるのではないでしょうか」と。
もう一つは毎年繰り返されるノーベル賞騒ぎ。「第3回 文学賞について」では過去の芥川賞(を逃した)騒動に触れつつ、ノーベル賞についてはチャンドラーの例など間接的な言及に留められている。私自身、春樹氏が受賞してテレビなどのメディアに晒される姿は想像しにくいし、見たくもない。それが受賞を強くは望まない最大の要因になっている。しかし、ここでは文学賞よりも読者との直接的な関係性を重視しているということが繰り返し強調されているだけで、受賞を拒否するという意味合いは含まれておらず、実際に国内外の文学賞をこれまでも受賞し、式典にも出席してきている。
冒頭の「なぜ」という疑問がわいた理由は、本書のかなりの部分は、これまでも各種エッセイだけでなく、音楽、ランニング、作家活動などについての単行本やインタビュー集でも触れられてきた内容であり(しかも本書の中でも繰り返しが多数あり)、古くからの愛読者にとって、ディテールはともかく大筋において「新たな発見や驚き、喜び」は少なかったというのが正直な感想だからだ。
その三つ目の答えとしては、上記二つとも重複するが、『1Q84』以降の「第二のブーム」で生じた若い読者を主な対象として書かれたのではないかと考える。私自身は『1Q84 BOOK3』以降の3冊(『多崎つくる』『女のいない』)に言いようのない違和感を感じ、「いま」どうして多くの新たな読者に読まれ始めているのか理解し難い状況にあるので、そのような若い読者層からどのように受け止められたのか若干の興味はある。
それにしても、出版不況と一部の活況(春樹氏や又吉氏など)の中で、村上春樹の新作を購入せずに図書館から借りて読んだという事実には、何か煮え切らない思いがあるのも事実だ。(かと言って購入して手元に置いておきたいとも思わなかったが。。理由は上述。)
※読書後の短文レビューを長らくサボっていたが、脳味噌と一緒に煙となって消えてしまう前に(それ以前に記憶ネットワークから焼失してしまう前に)、わずかでも興味を持った人の役に立つことを願いつつ、一言ずつでも書き残しておくことにする。(今回は少し長くなったが)
その答えの一部は、やや唐突に挿入された「第8回 学校について」にあるだろう。画一的な学校システムの歪みの中で命を落としていく子どもたち。その歪みは日本社会の歪みそのものであり、必然的に福島原発事故にも言及していく。「(通常の想定を超えた自然災害が)致命的な悲劇の段階にまで推し進められたのは、現行システムの抱える構造的な欠陥のためであり、それが生みだしたひずみのためです。システム内における責任の不在であり、判断能力の欠落です。他人の痛みを「想定」することのない、想像力を失った悪しき効率性です」「おそらくみなさんもおおむね同じような思いを抱いておられるのではないでしょうか」と。
もう一つは毎年繰り返されるノーベル賞騒ぎ。「第3回 文学賞について」では過去の芥川賞(を逃した)騒動に触れつつ、ノーベル賞についてはチャンドラーの例など間接的な言及に留められている。私自身、春樹氏が受賞してテレビなどのメディアに晒される姿は想像しにくいし、見たくもない。それが受賞を強くは望まない最大の要因になっている。しかし、ここでは文学賞よりも読者との直接的な関係性を重視しているということが繰り返し強調されているだけで、受賞を拒否するという意味合いは含まれておらず、実際に国内外の文学賞をこれまでも受賞し、式典にも出席してきている。
冒頭の「なぜ」という疑問がわいた理由は、本書のかなりの部分は、これまでも各種エッセイだけでなく、音楽、ランニング、作家活動などについての単行本やインタビュー集でも触れられてきた内容であり(しかも本書の中でも繰り返しが多数あり)、古くからの愛読者にとって、ディテールはともかく大筋において「新たな発見や驚き、喜び」は少なかったというのが正直な感想だからだ。
その三つ目の答えとしては、上記二つとも重複するが、『1Q84』以降の「第二のブーム」で生じた若い読者を主な対象として書かれたのではないかと考える。私自身は『1Q84 BOOK3』以降の3冊(『多崎つくる』『女のいない』)に言いようのない違和感を感じ、「いま」どうして多くの新たな読者に読まれ始めているのか理解し難い状況にあるので、そのような若い読者層からどのように受け止められたのか若干の興味はある。
それにしても、出版不況と一部の活況(春樹氏や又吉氏など)の中で、村上春樹の新作を購入せずに図書館から借りて読んだという事実には、何か煮え切らない思いがあるのも事実だ。(かと言って購入して手元に置いておきたいとも思わなかったが。。理由は上述。)
※読書後の短文レビューを長らくサボっていたが、脳味噌と一緒に煙となって消えてしまう前に(それ以前に記憶ネットワークから焼失してしまう前に)、わずかでも興味を持った人の役に立つことを願いつつ、一言ずつでも書き残しておくことにする。(今回は少し長くなったが)