この作品に関しては何も言うことはない。人間の愚かしさを突きつけられたようで、言葉が無いのである。
冒頭の狂ったような犬の姿は、人間性とやらの一面の象徴なのだろう。畜生の姿を使って客体化をしているが、人も畜生も生を貪るのがその本能であるというのは同じだ。ほぼ全編がアニメーションだが、最後のシーンだけが実写になる。アニメという様式で描くことで、他人事のように見えていたものが実写になることで、その内容がいつ自分に降りかかってもおかしくない現実のことなのだ、というふうな製作意図があるのかもしれない。しかし、このような小細工は蛇足ではないか。こんなことをしなくとも、人も畜生も根元は同じだということは、痛いほどによくわかる。
人にはそれぞれに物事を俯瞰する際の居心地のよい立ち位置というものがある。最後の実写など無くても、作品の中の世界を敏感に認識できる人もいれば、全編実写でも自分には無関係のことにしか思えない人もいる。誰にでも理解できるようなものは、それなりの浅薄なものでしかないということであり、真に伝えたいことがあるのなら、伝える相手にもリテラシーを要求せざるを得ないのではないか。妙な妥協をしないと制作費を賄うスポンサーが付かないということなら、そうした小細工もやむを得ないのかもしれない。
世の中で公開されている映画の圧倒的多数は程度の差こそあれ、エンターテインメントであろう。それを観ることで素朴に楽しいとか面白いとか思えるようなものであるからこそ、世情の話題になり、話題になるからこそ、いくばくかの費用を投じてでも観ようと思うものだろう。物語を創造するというのは無から有を創り出すようなものなので、創り出した分は作り手や関係者の利益となるはずだ。創り出したもの、とは端的には興行収入である。もちろん、どの程度の費用をかけて創り出すのかということにも拠るが、そもそもは無から創造するのだから、収入があるというだけでも驚異的なレバレッジが利いているわけであり、観客動員力に秀でた俳優や関係者が巨額のギャラを手にするのは当然のことなのである。
では、観るべき作品とは、そのような誰もが楽しめるようなものだけなのだろうか。興行収入を得るという目的を追求するならば、世に存在しうる作品は、そのようなものに行き着かざるを得ないだろう。しかし、それが文化であり文明というものだ、と言われてしまうと釈然としない。価値というものの尺度を金銭に求めれば、収益の極大化は我々が暮らす市場経済の掟なのだから仕方が無い。釈然としないのは、人間というものが市場というものだけに収まりきれるものではないからだ。
収まりきれないものを無理に収めようとするところに様々な歪みが生じるのは当然だ。犯罪も戦争も病も結局のところはそうした歪みが具象化したものではないか。個人も社会もそれぞれの規模に応じてそれぞれの歪みを抱えているのだと思う。その歪みを発散させるのも芸術やエンターテインメントの役割ではないだろうか。発散の方法は一様ではないが、歪みと真正面から向かい合うというのもひとつだろう。
ここ数年の間に観た作品のなかでは、この「戦場でワルツを」のほかに「亀も空を飛ぶ」や「ホテル・ルワンダ」が直視系としてすぐに思い浮かぶ。どれも今の日本人には絶対に撮ることのできない作品だろう。なぜなら、この種の修羅場を我々は経験していないから、そのような現実が存在することを想像することもできないし、存在することくらいは想像できたとしても、自分がその場面に立ち会っていることは考えも及ばないからだ。
そういうことの想像力が働かないということは、おそらく恐ろしく幸運なことなのだと思う。
冒頭の狂ったような犬の姿は、人間性とやらの一面の象徴なのだろう。畜生の姿を使って客体化をしているが、人も畜生も生を貪るのがその本能であるというのは同じだ。ほぼ全編がアニメーションだが、最後のシーンだけが実写になる。アニメという様式で描くことで、他人事のように見えていたものが実写になることで、その内容がいつ自分に降りかかってもおかしくない現実のことなのだ、というふうな製作意図があるのかもしれない。しかし、このような小細工は蛇足ではないか。こんなことをしなくとも、人も畜生も根元は同じだということは、痛いほどによくわかる。
人にはそれぞれに物事を俯瞰する際の居心地のよい立ち位置というものがある。最後の実写など無くても、作品の中の世界を敏感に認識できる人もいれば、全編実写でも自分には無関係のことにしか思えない人もいる。誰にでも理解できるようなものは、それなりの浅薄なものでしかないということであり、真に伝えたいことがあるのなら、伝える相手にもリテラシーを要求せざるを得ないのではないか。妙な妥協をしないと制作費を賄うスポンサーが付かないということなら、そうした小細工もやむを得ないのかもしれない。
世の中で公開されている映画の圧倒的多数は程度の差こそあれ、エンターテインメントであろう。それを観ることで素朴に楽しいとか面白いとか思えるようなものであるからこそ、世情の話題になり、話題になるからこそ、いくばくかの費用を投じてでも観ようと思うものだろう。物語を創造するというのは無から有を創り出すようなものなので、創り出した分は作り手や関係者の利益となるはずだ。創り出したもの、とは端的には興行収入である。もちろん、どの程度の費用をかけて創り出すのかということにも拠るが、そもそもは無から創造するのだから、収入があるというだけでも驚異的なレバレッジが利いているわけであり、観客動員力に秀でた俳優や関係者が巨額のギャラを手にするのは当然のことなのである。
では、観るべき作品とは、そのような誰もが楽しめるようなものだけなのだろうか。興行収入を得るという目的を追求するならば、世に存在しうる作品は、そのようなものに行き着かざるを得ないだろう。しかし、それが文化であり文明というものだ、と言われてしまうと釈然としない。価値というものの尺度を金銭に求めれば、収益の極大化は我々が暮らす市場経済の掟なのだから仕方が無い。釈然としないのは、人間というものが市場というものだけに収まりきれるものではないからだ。
収まりきれないものを無理に収めようとするところに様々な歪みが生じるのは当然だ。犯罪も戦争も病も結局のところはそうした歪みが具象化したものではないか。個人も社会もそれぞれの規模に応じてそれぞれの歪みを抱えているのだと思う。その歪みを発散させるのも芸術やエンターテインメントの役割ではないだろうか。発散の方法は一様ではないが、歪みと真正面から向かい合うというのもひとつだろう。
ここ数年の間に観た作品のなかでは、この「戦場でワルツを」のほかに「亀も空を飛ぶ」や「ホテル・ルワンダ」が直視系としてすぐに思い浮かぶ。どれも今の日本人には絶対に撮ることのできない作品だろう。なぜなら、この種の修羅場を我々は経験していないから、そのような現実が存在することを想像することもできないし、存在することくらいは想像できたとしても、自分がその場面に立ち会っていることは考えも及ばないからだ。
そういうことの想像力が働かないということは、おそらく恐ろしく幸運なことなのだと思う。