熊本熊的日常

日常生活についての雑記

「倫敦から来た男」(原題:The Man from London)

2009年12月23日 | Weblog
こういう映画があるのだと驚いた。正直なところ、物語自体はそれほど面白いとは思わなかったが、映像表現の方法に興味を覚えた。

例えば、主人公である鉄道の転轍手が働く制御室は、ガラス張りの部屋を頂いた塔になっている。当然、塔の中からは、駅構内はもとより、駅を取り巻く風景を一望に見渡すことができる。しかし、夜、地上から眺めてみれば、ガラス張りで照明の入った制御等は見世物の檻のように見えるのである。見ることと見られることとの関係に当事者が意識しない対称性があり、夜という暗さの効果とも相まって不安なものに映る。それは、この場面特有のものではなく、そこに誰しもが抱える似たような関係の象徴という普遍性を帯びたもののようにも思われる。人と人との関係は必ずしも双方向ではないし、双方であっても相手に対する働きかけの程度は同じではないし、同じに感じられるものでもない。当事者間に双方向という意識がなくても、傍目には双方向であることもあれば、その逆もある。

また、全体としてカメラが長回しになっているのも、映像に独特の陰影とか含みのようなものを与えている。静かな映像なのに、そうした背後の何かを求めて思わず見入ってしまった。

登場人物の表情は一見すると乏しい。確かに、人の感情というものは芝居のように直接的に表面に現れるものではない。勿論、個人差はあるだろうが、人間は感情を押し殺すことのできる唯一の動物だ。その押し殺されたものを表現しようとしたのがこの作品であるように思う。時間にしてわずか2日か3日ほどの間の変化が、何気ない動作や、表情とか佇まいの微妙な変化で語られていて、そのわずかな時間が途方も無く長いもののように思われるのである。

この作品のラストを観て、ふと「ペーパー・ムーン」の最初の場面を思い出した。どちらも人物の表情をアップにしたものなのだが、一見して平板な表情が前後の文脈のなかでどれほど雄弁に物事を語るものなのかということがよくわかる。おそらく、それは演じている役者の技量云々ということよりも、観る側の心象が意味性を押し殺した微妙な表情のなかに反映されるということなのだろう。意味性の空白があるからこそ、観る側はその空白を自分の意識や感情で埋めようとする。観客は作中の人物を観ることで無意識のうちに自分自身を見ているのである。

ふと「ゆれる」や「ディア・ドクター」も人の表情にこだわった作品であることを思い出した。当然のことながら、人は言葉だけで関係性を構築したり維持しているのではない。第六感と呼ばれる五感を超越したものも含めて、持てる感覚を総動員して人と人とはつながるのである。だからこそ、心地よい関係を手にすることは容易ではないし、そうした関係を得たときの喜びは大きい。結局、生きる喜びというのは、そうした自分の持てる力を総動員しながら自分の存在を確認する作業によってしか得られないのではないかとさえ思う。そう思うと、自分がどれほど総動員作業を行っているかということを反省しないではいられない。

映画の帰り道、久しぶりに澤乃井でうどんを食べた。昔、勤め先が渋谷であった頃、この店とかトルコ料理のアナトリアといった宮益坂の店はランチ圏内だった。あれから何年も経ち、通りに並ぶ店はずいぶん入れ替わったが、澤乃井とかアナトリアといった当時のお気に入りが今でも同じようにあることが妙に嬉しかったりする。