熊本熊的日常

日常生活についての雑記

苦い幸福感

2009年12月17日 | Weblog
「戦場でワルツを」についてのブログにいただいたコメントに「苦い幸福感」という言葉があった。言わんとすることは想像できるし、上手い表現だとも思うが、多少の補足を加えさせて頂きたい。

あのブログの最後にある「おそらく恐ろしく幸運」というのは、皮肉でもなんでもなく、素朴にそう思うだけである。甘くも苦くもない単なる幸福感がそこにある。自分はその悲惨な場にいないという幸福感だ。

以前、このブログのどこかにも書いたと記憶しているが、人は生まれることは選べない。生まれたが最後、与えられた生を生きなければならない。生まれたところが世紀の大富豪の家であろうが、難民キャンプだろうが、それが自分に与えられた生活の場であるなら、そこを生きるしかないのである。それが不満なら、そこから抜け出すことを考え、その考えを実行するだけのことだし、そこに満足するなら、その既得権を守り抜けばよいだけのことだ。ただ、どこに生まれたにせよ、決まっていることがひとつある。生まれたら必ず死ぬのである。生きている期間は、今の時代の日本人なら、平均的に80年前後だ。尤も、個人にとっては平均というのはたいして意味はない。いずれにしてもたいして長い時間とは言えないだろう。生きているその時々は長く感じられたり短く思われたりするのだが、きっと最期を前にしてみれば儚い一瞬のように思われるのではないだろうか。

その儚い個人の時間が恵まれていようが悲惨であろうが、どうでもよいことではないかと思うのである。もし、自分の置かれた環境が恵まれていると感じられるなら、堂々とその恵みを享受すればよい。世にチャリティだの慈善事業だのを賛美する風潮もあるように感じられるが、それはあくまでも個人の自由意志に委ねられるべきものであって強制される筋合いのものではない。経済的に恵まれているのは才能と努力と幸運の結果であり、それを「所得の再配分」などと称して高率の税金をかけて国家が吸い上げてみたり、慈善事業への参加を実質的に強制するといった方法で第三者が徴収するのは、単に搾取というものだろう。

人に欲望があり、それをかなえることが行動原理の基礎をなし、しかも人に得て不得手があって能力の差異がある限り、世に格差はなくならない。人に自我があり、認識活動の基本に自他の区別というものがある限り、世に差別はなくならない。当然のことだろう。勿論、格差や差別は社会不安の元であり、その解消が正義であるという考え方も当然だと思う。しかし、本源的に存在するものの表層だけを否定して取り繕ったところで、格差や差別が人の意識から消えるものではなく、かえって社会の深層に複雑な根を張り巡らせるのではないか。