粋な作品だ。私のなかでは確実に「名作」のひとつに数えることができる。
「縁は奇なもの味なもの」という言葉を地で行くような物語である。街道沿いにぽつんと一軒だけあるカフェが舞台だ。大喧嘩をして亭主を追い出した直後のカフェの女主人ブレンダと、やはり大喧嘩をして夫が運転する車を降りて街道の路肩を歩いてこのカフェにたどり着いた旅行中のドイツ人女性ジャスミンが、奇妙な友情を確立するまでが描かれている。
モーテルを併設したカフェを営業しながら、宿泊したいという客が現れると警戒するブレンダも妙だが、宿泊客がいないことが当然のように荒れ果てた宿に泊まって、それを掃除したり手入れをしたりするジャスミンも妙だ。ただ、部屋や事務所がきれいに片付けられたことに腹を立てるブレンダの気持ちはわからないでもない。傍目には荒れていても、当事者にとってはそれなりの秩序があるということは珍しいことではない。要するに自己の領域というものが誰にでもあるということだ。
この場末のカフェの何が気に入ったのかわからないが、ジャスミンはこの場所に馴染もうと一生懸命の行動を始める。掃除もそのひとつだし、ブレンダの子供たちとも積極的に関わろうとする。それがブレンダの側にすれば、縄張りを侵されているように感じるのだろう。敵意をむき出しにしてみたり、保安官を呼んで追い出しを図ってみたりするが、それがジャスミンの一生懸命さを煽ることになってしまう。ジャスミンには子供がいない。そのことが彼女にとっては何か意味があるようなのだが、その事情はわからない。彼女の荷物のなかに何故か手品セットがある。本職が使う小道具ではなく、玩具店などで売られている類のものだ。それを取り出して練習を始め、その成果をカフェの客を相手に披露すると、たちまち評判になる。その評判というのが、トラック運転手どうしの無線を通じて広がるというのもおもしろい。
それまで日に数えるほどしか客が来ないカフェにマジックショー目当てに大勢のトラック運転手が押しかけるようになる。その頃にはジャスミンとブレンダとはすっかり打ち解けている。しかし、ここで問題が起こる。ジャスミンは観光目的で入国しているので労働行為は違法である。カフェでマジックショーというのはまずいのである。ようやく居場所を確保できたと思った矢先にジャスミンは帰国を余儀なくさせられてしまう。彼女のマジックショーを取り締まったのは、トラック運転手の間の無線を傍受して事態を知った保安官だった。無線で広がった評判が無線が原因で打ち消されてしまう皮肉。
カフェはブレンダの家族と、調理場を任されているインディアン風の青年が切り盛りしている。ほかに、宿に居ついてトラックの運転手相手に商売をしている若い女性の彫物師、カフェの前に停めたキャンピングカーで生活する自称「映画セットの背景画の絵描き」が絡む。さらに、ジャスミンが転がり込むのと同時期にブーメランをたくさん抱えた青年バックパッカーがどこからともなく現れて、カフェの敷地内でテント生活を始める。
客が少なかった時は、ブレンダは何かにつけ亭主や子供たちを怒鳴りつけ、カフェ全体がとっつきにくい雰囲気で、そこに変わり者の彫師と絵描きが居候のように居ついていたのだが、マジックショーで活気付くとブレンダの怒鳴り声も聞かれなくなり、カフェ全体が和気藹々とした雰囲気になる。すると、彫師が出て行くと言い出す。ブレンダが理由を問うとその答えは”too much harmony”だというのである。人と人との心地よい距離というのは誰にとっても同じではない。他人と上手く付き合うというのは容易なことではない。
再びバグダッド・カフェに静寂の日々が戻る。そこへジャスミンが現れる。客が潮の満ち引きのように増えたり減ったりするのも、ジャスミンがドイツへ一旦帰ってから戻ってくるのも、バックパッカーの青年が投げるブーメランの動きのようだ。そして、物事はブーメランのように、時に暴投になったりもする。それもまた愉しいと思えるような人でありたいと、ふと思う。
ラストシーンは落語の下げのようだ。この作品は米国を舞台にしているがクレジットではドイツ映画ということになっている。日本とは無縁のはずなのだが、脚本家や監督はひょっとして落語を知っているのではないかと思って、なんとなく仲間意識を感じてしまう、とても単純な私であった。
「縁は奇なもの味なもの」という言葉を地で行くような物語である。街道沿いにぽつんと一軒だけあるカフェが舞台だ。大喧嘩をして亭主を追い出した直後のカフェの女主人ブレンダと、やはり大喧嘩をして夫が運転する車を降りて街道の路肩を歩いてこのカフェにたどり着いた旅行中のドイツ人女性ジャスミンが、奇妙な友情を確立するまでが描かれている。
モーテルを併設したカフェを営業しながら、宿泊したいという客が現れると警戒するブレンダも妙だが、宿泊客がいないことが当然のように荒れ果てた宿に泊まって、それを掃除したり手入れをしたりするジャスミンも妙だ。ただ、部屋や事務所がきれいに片付けられたことに腹を立てるブレンダの気持ちはわからないでもない。傍目には荒れていても、当事者にとってはそれなりの秩序があるということは珍しいことではない。要するに自己の領域というものが誰にでもあるということだ。
この場末のカフェの何が気に入ったのかわからないが、ジャスミンはこの場所に馴染もうと一生懸命の行動を始める。掃除もそのひとつだし、ブレンダの子供たちとも積極的に関わろうとする。それがブレンダの側にすれば、縄張りを侵されているように感じるのだろう。敵意をむき出しにしてみたり、保安官を呼んで追い出しを図ってみたりするが、それがジャスミンの一生懸命さを煽ることになってしまう。ジャスミンには子供がいない。そのことが彼女にとっては何か意味があるようなのだが、その事情はわからない。彼女の荷物のなかに何故か手品セットがある。本職が使う小道具ではなく、玩具店などで売られている類のものだ。それを取り出して練習を始め、その成果をカフェの客を相手に披露すると、たちまち評判になる。その評判というのが、トラック運転手どうしの無線を通じて広がるというのもおもしろい。
それまで日に数えるほどしか客が来ないカフェにマジックショー目当てに大勢のトラック運転手が押しかけるようになる。その頃にはジャスミンとブレンダとはすっかり打ち解けている。しかし、ここで問題が起こる。ジャスミンは観光目的で入国しているので労働行為は違法である。カフェでマジックショーというのはまずいのである。ようやく居場所を確保できたと思った矢先にジャスミンは帰国を余儀なくさせられてしまう。彼女のマジックショーを取り締まったのは、トラック運転手の間の無線を傍受して事態を知った保安官だった。無線で広がった評判が無線が原因で打ち消されてしまう皮肉。
カフェはブレンダの家族と、調理場を任されているインディアン風の青年が切り盛りしている。ほかに、宿に居ついてトラックの運転手相手に商売をしている若い女性の彫物師、カフェの前に停めたキャンピングカーで生活する自称「映画セットの背景画の絵描き」が絡む。さらに、ジャスミンが転がり込むのと同時期にブーメランをたくさん抱えた青年バックパッカーがどこからともなく現れて、カフェの敷地内でテント生活を始める。
客が少なかった時は、ブレンダは何かにつけ亭主や子供たちを怒鳴りつけ、カフェ全体がとっつきにくい雰囲気で、そこに変わり者の彫師と絵描きが居候のように居ついていたのだが、マジックショーで活気付くとブレンダの怒鳴り声も聞かれなくなり、カフェ全体が和気藹々とした雰囲気になる。すると、彫師が出て行くと言い出す。ブレンダが理由を問うとその答えは”too much harmony”だというのである。人と人との心地よい距離というのは誰にとっても同じではない。他人と上手く付き合うというのは容易なことではない。
再びバグダッド・カフェに静寂の日々が戻る。そこへジャスミンが現れる。客が潮の満ち引きのように増えたり減ったりするのも、ジャスミンがドイツへ一旦帰ってから戻ってくるのも、バックパッカーの青年が投げるブーメランの動きのようだ。そして、物事はブーメランのように、時に暴投になったりもする。それもまた愉しいと思えるような人でありたいと、ふと思う。
ラストシーンは落語の下げのようだ。この作品は米国を舞台にしているがクレジットではドイツ映画ということになっている。日本とは無縁のはずなのだが、脚本家や監督はひょっとして落語を知っているのではないかと思って、なんとなく仲間意識を感じてしまう、とても単純な私であった。