熊本熊的日常

日常生活についての雑記

柴田是真展

2009年12月24日 | Weblog
所用で日本橋に行くことがあり、少し時間が空いたので三井記念美術館で開催中の「柴田是真の漆x絵」を観てきた。

美術館や博物館の類にはよく足を運ぶのだが、漆器はこれまでのところあまり馴染みがなく、松田権六くらいしか知らなかった。今回、初めて是真の作品を観てすっかり一目惚れしてしまった。なにがどうというのではないのだが、全体の間合いとか描かれたり作られたりしたものの佇まいといったものが、しっくりと自分のなかに受け入れられる感じがするのである。

しっくりくるのは、自分が日本人だからかもしれない。漆は日本文化を象徴するもののひとつで、かつては食器、家屋の内装品や調度品といった生活のなかに根ざした用具類の多くが漆芸品だった。英語で「Japan」といえば言わずと知れた「日本」のことだが、「japan」といえば「漆」あるいは「漆器」という名詞であり、動詞で使えば「漆を塗る」という意だ。漆器は地が木や和紙なので手に持ったときに軽やかで、その表面の風合いとか肌触りが心地よい。

是真の作品は、その佇まいもさることながら、絵柄の構図がかっこよいのである。私の貧弱な言葉で説明するのは困難なのだが、敢えて言うなら、絶妙のバランス感覚のようなものが感じられる。絵に関しては小林古径が好きなのだが、是真も画風は違うけれども間の雰囲気が似ているように感じられる。

或る空間が与えられたとき、西洋絵画はそれを埋め尽くそうとするのだが、日本画は地を含めた空間全体を表現の対象としようとする。それは人知と自然との関係の認識のスタイルが違うという解釈もできるだろうし、意思の表現として、与えられたものには遍く自分の色をつけ可能な限り多くの相手に自己の存在を主張しないと気が済まない姿勢と、要を押さえることで自己を表現し、わかる奴にだけわかれば良しとする姿勢との違いという解釈もできるだろう。是真の作品は、わかる奴相手の姿勢がとりわけ強いように思われるのである。

数を恃むというのは、軽薄の骨頂であると思う。有象無象も数のうち、枯れ木も山の賑わい、多数決、民主主義、など数は力という考え方には生理的に違和感を覚える。人が一生の間に出会う相手のなかで、言葉がそこそこに通じ合い、議論が本当に成立する相手というのは、いるかいないかというほどに少ないものだと思う。自分が心動かされるほどに美しいとか恰好がよいとか感じたものを共有できる相手がいたら、楽しいだろうなとは思うのだが、そんな奴がたくさんいたら、自分の感性がかなり磨耗していることを心配しなくてはいけないとも思う。