熊本熊的日常

日常生活についての雑記

打ち出の小槌

2009年12月26日 | Weblog
景気対策とか経済対策といったことに関する最近の話がなんとなく浮世離れしているように感じられるのは、語り手が価値創造ということについて無知である所為ではないかと思う。

日本経済という単位で語るにせよ、東京都の景気という単位にせよ、我が家の家計を語るにせよ、そこで必要なのは打ち出の小槌のようなものである。無から有を生み出すものがあればそれに越したことはないのだが、それこそ非現実的なことであろうから、せめて何か種のようなものから果実を生み出す仕組みがないと、その経済単位は存続できないという当然のことが認識されていないように思われるのである。

金がない、困った、というときに個人のレベルではどうするだろうか。最も全うな対応策としては仕事をするということだろう。自分の労働力を提供してその対価として金銭あるいはそれに準ずる報酬を受け取るのである。提供する労働力の評価というものは自分のなかに絶対的水準があるわけではなく、時給1,000円とか月給50万円とか年俸いくら、というような提示を受け、それが受け容れられるものかどうかという気分に近い情緒的基準に拠るのが一般的なのではないだろうか。しかし、自分がそこに居ることの価値というのはよほど天才的技能の持ち主ならいざ知らず、特に圧倒的に秀でた能力を持たない圧倒的大多数の人の場合は限りなくゼロに近いというのが現実だろう。そのゼロが時間当たり1,000円とか月当たり50万円 というような金銭を生み出すのだから、賃労働というのは打ち出の小槌のようなものだと言える。

かつて日本が高度経済成長を遂げた時代の価値創造機関は主として製造業だった。「Made in Japan」という刻印の入った製品が世界を席巻した時代があったのである。説明するまでもないが、製造業というのは原材料とそれを加工する労働力に付加価値をつけて販売するという業である。その競争力は製品の機能、デザイン、耐久性その他諸々の性能と、その性能対比で割安と感じられ得る価格によって表現される。製品それ自体の属性と価格のパッケージと言ってもよいだろう。その製造業が衰退を始めて久しい。

技術というものは伝播するものなので、製品が普及すればそれに伴って技術も広まるものである。特許とか知的所有権というものへの信仰にも似た幻想が一部にあるようだが、本当に価値を創造できる特許というのは稀である。稀であるがゆえに価値を創造するのである。例えば、山に登るのに道はひとつではない。未踏の山に登るのならそれなりの意義はあるだろうが、知られている山の道のひとつを以ってそれが大発明であるかのような夢を見る人があるが、それは実体としては個人の満足感の域を出るものではなく、そんなものに価値などあるはずはない。どれほど優れた技術や製造ノウハウをもってしても、製造業というのは製品や製造技術の絶え間ない進化を追及し続けなければ優位性を保持できない宿命を抱えているのである。

この国が衰退を始めた根本的な原因のひとつは、その成長の原動力となった製造業に代わる原動力を見出しそこなったことにあると思う。勿論、国として新産業新事業の育成や振興のための対策を執らなかったわけではない。しかし、そうした餌に食いつくものの過半は広義の物販事業である。物販というのは手数料商売のようなもので、薄利多売の事業である。そこに価値の創造などは期待できない。個別には商品開発に新規性があり、一般的な物販を超えた流通事業者も存在するが、それは個別の企業の成長を支えることはあっても、一国の経済を支えるようなものにはならない。

政府の経済対策に欠けているのは、そうした打ち出の小槌をいかに育成していくかという視点そのものであるような気がしてならない。公共の福祉も大切だろうが、それが悪平等をもたらすようでは、起業家精神の芽を摘んでしまうのではないだろうか。毒にも薬にもならない施策と習慣の延長線上でしかないような政策しか出てこないのでは政権交代の意味などないだろう。政府の話はともかくとして、個人的には自分の家計における打ち出の小槌を作りあげるなり見つけ出すなりすることが目下火急の課題だ。