司馬遼太郎の作品は、史実に基づいている上にそれらを細かく網羅しているので、ノンフィクションのように感じられることもある。しかし、ところどころに架空の人物が間合いよく埋め込まれていて、主人公や物語が引き立つようになっている。本作でも竜馬を取り巻く人々のなかに実在しなかった人があり、そうした人物との関わりを通じて竜馬像がより魅力的に描き出されている。実際の竜馬像については諸説あるようだが、その名前が今日まで残っていることは事実であり、現代日本の礎の建設に重要な役割を果たしたことは間違いなさそうだ。尤も、彼が命をかけて実現させた倒幕の果てに実現した社会が、彼の構想していたものかどうかはわからない。明治維新は多少の内戦を伴いながらも、徳川幕府から朝廷への政権返上自体は流血を伴うことなく実施された世界史にも稀な無血革命だ。しかし、多くの革命がそうであるように、政権や政体が変化したといっても、人々の暮らしが実質的に変化したわけではないようだ。
人間に限らず、生き物は欲望の塊である。人間の場合は社会という関係の構造を構築して、そのなかで自分の位置というものを求める。社会は、そこでの物事を決定する決定権者が必要とする。それが合議制の組織であるか、独裁者であるか、形態は違っていても権力の執行機関という位置づけは同じことである。人の欲望というのは際限のないものだが、その発現形態にはその人なりの個性があるものだ。人によっては権力を握ることで自己の存在を確認するものもあり、そうした人々が政治家であるとか組織内部の管理者を目指すことになるのだろう。権力獲得という彼等の本源的欲望の実現手段として、武力を行使する場合もあるだろうし、言説を駆使する場合もあるだろうし、陰謀をめぐらすこともあるだろう。いずれにしても、そうした人々は権力を掌握することが目的であって、その目的のために広げた大風呂敷を具体化することは、それが権力を維持するのに必要な場合にのみ実施に移されるものである。明治維新で幕府が倒れても、それを機に西洋の文明が取り入れられたという現象面での変化はあるにせよ、権力者が徳川家から新政府の要人に移行しただけで、社会の実質はそれほど変わらなかったのではないかと思うのである。倒幕の精神として「一君万民」という平等思想があったはずなのだが、かつての志士も権力の座に座るや、既得権を守ることに汲々とし、華族と呼ばれる貴族社会を創造するに至るのである。結局、人はヒエラルキーのなかでしか生きることができないのではないかとさえ思ってしまう。
竜馬は倒幕運動で重要な役割を果たしたという点で、時の幕府の要人と親しい関係にあったとはいいながらも、革命家であったと言えるだろう。その倒幕という志がほぼ実現したところで暗殺されてしまうが、仮に生きて明治を迎えたとして、彼はそこで次に何をしただろうかと考えずにはいられない。司馬遼太郎は「坂の上の雲」のなかでこう書いている。「多くの革命は、政権の腐敗に対する正義と情熱の持続によって成立するが、革命が成立したとき、それらはすべて不要か、もしくは害毒になる」
幕末の志士たちが明治政権の閣僚になったとき、彼等もまた権力にあぐらをかき、国家という巨大なものが自分たちの力でのみ動くものだという錯覚に陥る。その証拠に、明治から太平洋戦争に至るまで、政治の世界は薩摩か長州かというような、およそ国家あるいは国民の利害とは無関係の、矮小な門閥意識に支配されることになる。その矮小な意識が、頑迷な皇国思想という幻想に姿を変え、太平洋戦争という狂気に向かったのは歴史の教えるところだ。幕末から維新へ、それによって成立した大日本帝国から太平洋戦争へ、そして戦後の被占領期間を経て今日へと、日本の国のありようは、少なくとも外見上は大きな変化を遂げてきた。しかし、社会のありようはどれほど変わったのだろうか。竜馬が今の日本の姿を見て何を語るのか、そんなことを思いながらこの作品を読み終えた。
人間に限らず、生き物は欲望の塊である。人間の場合は社会という関係の構造を構築して、そのなかで自分の位置というものを求める。社会は、そこでの物事を決定する決定権者が必要とする。それが合議制の組織であるか、独裁者であるか、形態は違っていても権力の執行機関という位置づけは同じことである。人の欲望というのは際限のないものだが、その発現形態にはその人なりの個性があるものだ。人によっては権力を握ることで自己の存在を確認するものもあり、そうした人々が政治家であるとか組織内部の管理者を目指すことになるのだろう。権力獲得という彼等の本源的欲望の実現手段として、武力を行使する場合もあるだろうし、言説を駆使する場合もあるだろうし、陰謀をめぐらすこともあるだろう。いずれにしても、そうした人々は権力を掌握することが目的であって、その目的のために広げた大風呂敷を具体化することは、それが権力を維持するのに必要な場合にのみ実施に移されるものである。明治維新で幕府が倒れても、それを機に西洋の文明が取り入れられたという現象面での変化はあるにせよ、権力者が徳川家から新政府の要人に移行しただけで、社会の実質はそれほど変わらなかったのではないかと思うのである。倒幕の精神として「一君万民」という平等思想があったはずなのだが、かつての志士も権力の座に座るや、既得権を守ることに汲々とし、華族と呼ばれる貴族社会を創造するに至るのである。結局、人はヒエラルキーのなかでしか生きることができないのではないかとさえ思ってしまう。
竜馬は倒幕運動で重要な役割を果たしたという点で、時の幕府の要人と親しい関係にあったとはいいながらも、革命家であったと言えるだろう。その倒幕という志がほぼ実現したところで暗殺されてしまうが、仮に生きて明治を迎えたとして、彼はそこで次に何をしただろうかと考えずにはいられない。司馬遼太郎は「坂の上の雲」のなかでこう書いている。「多くの革命は、政権の腐敗に対する正義と情熱の持続によって成立するが、革命が成立したとき、それらはすべて不要か、もしくは害毒になる」
幕末の志士たちが明治政権の閣僚になったとき、彼等もまた権力にあぐらをかき、国家という巨大なものが自分たちの力でのみ動くものだという錯覚に陥る。その証拠に、明治から太平洋戦争に至るまで、政治の世界は薩摩か長州かというような、およそ国家あるいは国民の利害とは無関係の、矮小な門閥意識に支配されることになる。その矮小な意識が、頑迷な皇国思想という幻想に姿を変え、太平洋戦争という狂気に向かったのは歴史の教えるところだ。幕末から維新へ、それによって成立した大日本帝国から太平洋戦争へ、そして戦後の被占領期間を経て今日へと、日本の国のありようは、少なくとも外見上は大きな変化を遂げてきた。しかし、社会のありようはどれほど変わったのだろうか。竜馬が今の日本の姿を見て何を語るのか、そんなことを思いながらこの作品を読み終えた。