熊本熊的日常

日常生活についての雑記

「ずっとあなたを愛してる」(原題:IL Y A LONGTEMPS QUE JE T’AIME)

2009年12月29日 | Weblog
映画館のなかでむせび泣いてしまった。最後のほうの場面で涙でスクリーンが曇ってよく見えなくなってしまったので、眼鏡を外し、ハンカチを出し、それを目に当てたら、もうどうしょうもなく泣けてきて、少し嗚咽が漏れてしまった。おそらく、誰もが泣くような場面ではないと思う。このところ齢を重ねた所為か、涙腺がすっかりゆるくなってしまった。特に子供が絡むときは、どうにも弱い。

最後の場面は主人公が妹に自分の6歳の息子を殺した理由を語るところである。それを観ていて、私の子供が川崎病で入院していたときのことを思い出してしまったのである。もうすぐ退院という段になって、髄膜炎を発症した。経験のある人ならご存知だろうが、あの検査は大人でもかなり辛いものである。髄膜炎の疑いのある兆候が現れ、病室に検査機器が搬入されたとき、付き添いは外に出なければならなかった。病室の雰囲気が急に変わったことに不安を覚えたのであろう。子供は病室から出てゆく私たち両親にむかって「行かないで」と泣き叫んだ。できることなら傍にいてやりたいのはもちろんである。小さな子供が苦しんでいるのに、それをどうしてやることもできない己の無力を心底情けなく思った。この作品を観ていて、そのときの情景が脳裏に浮かんでしまい、そのときの自分の子供よりも深刻な状況にあった主人公の息子のことや、彼を前にした主人公の気持ちを察すると、涙と洟水が溢れ出してどうにもならなくなってしまったのである。

子供が病気になると、親は自分に落ち度があったのではないかと自責の念に苛まれるものだ。そのうえに、親は子供の病気に対する自分の無力を思い知らされるのである。これほど悲しいことがあるだろうか。何事も無い時には保護者面をしながら、肝心要のときには何の役にも立たない。その自分の無力に持って行き場のない怒りと悲しみを感じるのである。そして、その無力が子供に関することだけでなく、自分のことすべてについてもあてはまることだということに気づき、さらに打ちのめされた気分になるのである。

さて、映画のほうだが、これはフィリップ・クローデルが監督と脚本を担当した作品だ。私は彼の小説が大好きで、といっても日本語に訳されたものは「灰色の魂」「リンさんの小さな子」「子供たちのいない世界」「ブロデックの報告書」の4作品だけなのだが、これらを読んだだけで、私は彼に惚れ込んでしまった。今回、この映画を観たいと思ったのは、彼が脚本と監督を担当しているからだ。そして、その期待を決して裏切らない作品だった。

唐突だが、能面には大きく分けて鬼神、老人、男、女、霊とがある。これらは別々の登場人物であるかのようだが、実は、一人の人間の諸相を表現しているのではないかと思うのである。つまり、誰しもが、社交的側面も鬼神のような側面も併せ持つのではないか。そして凶行は、必ずしも心の闇によるものとは限らず、時に慈悲のあまりに結果としてもたらされることもあるのではないか。逆に、温和で愛しみ深いかのように見えて、実は冷酷な動機で情けをかけることもあるのではないか。人の感情と行動とは、そう単純に結びつくものではないということは、己の人生を振り返れば至極当然に納得できるのだが、つい思考の習慣として易きに流されてしまい、人間関係における大事な何かを見落としてしまうということが思いのほか頻繁にあるのではないか。

要するに、本作の主人公は15年の懲役から社会に復帰しているのだが、法解釈上はそのような重大犯罪者であっても、それが必ずしも実体と一致しないこともあるということなのである。しかし、社会においてはそうした背後のことに一切関係なく、「懲役15年」という表面的なことだけでその人が評価されてしまう。ひとりの人間は様々な側面を持つ、と言えば誰もが当然だと思うのだろうが、そうした複雑さを実際に考慮できる人は少ない、と思う。

例えば、離婚したと言うと「子供にとっては迷惑なことだ」とか「話し合ってなんとかならなかったのか」とか、当事者をろくに知りもせずに平気で評論家のようなことを口にする輩がいる。人にはそれぞれに人生があり、事情があるという当然のことを考慮することもなく、己の薄っぺらな思考でしか物事を評価することができない畜生並みの知性しかない気の毒な人たちだ。相手のことを本当に心配し、その心情を想像しようと努めるのなら、軽々しく言葉など出ないはずだ。

本作では、出所した姉を迎える妹が、姉にそっと寄り添う。姉が不在となって以来、両親は犯罪者たる姉の存在を家庭から抹殺し、この家族の過去を知らない人に対しては一人娘ということでこの妹を扱ってきた。それでも妹は姉のことが忘れられず、姉には姉の事情があったはずだということを信じ、そんな義務はないのに、出所した姉を喜んで自分の家庭に迎えるのである。そして、周囲の人々の心無い態度から姉を守ろうとし、姉の心が自然に開かれるのをじっと待つのである。これが本当の家族というものなのではないか。これが人として分別のある態度というものではないのか。勿論、映画だから多少の誇張も脚色もあるだろう。しかし、本当に相手を思えば、その思いはそう簡単には言葉にはならないはずだと思う。言葉にするということは、その言葉によって特定の理屈や可能性を切り出してしまうことだ。自分が相手について知っていることが、どれほどのことなのか、自分の知らないことがどれほどのことなのか、親しい間柄であればあるほど、簡単には割り切れないはずだと思うのである。

家族に関して、主人公の妹は、健康面では問題が無いにもかかわらず、自分で子供を産まずに養子を迎えて育てている。自分の子供を産まないというのは、姉の事件によるトラウマなのだろう。それでも、子供を欲するというのは、彼女のなかで子供を持つということがとても重要な意味を持っているということなのだと思う。彼女が迎えた2人の養子はともにベトナム人だ。本作の舞台はロレーヌ地方のナンシーという町で、姉妹の父はフランス人、母はイギリス人という設定だ。家族とは何か、という問題意識がそこに表現されているように思う。家族、それは必ずしも血のつながりではなく、自分と同じくらいに相手のことを大切に思う人たちの共同体、というようなことを言わんとしているのではないか。

こうした家族の描き方にも、私はフィリップ・クローデルへの共感を覚える。ちなみに、養女役のひとり、リズ・セギュールはフィリップの実の養女だそうだ。彼自身、刑務所で囚人に読み書きを教えるという仕事をしていたこともあるという。そうした経験が物語にも登場人物の台詞にも反映されていて、作品の奥深さとして結実しているような気がする。

奥深さという点では、作品の最後の場面での主人公の台詞が素晴らしいと思う。短いセンテンスに、生きるということの本質が凝縮されている。「わたしはここにいるわ」という単純明快な意識が、生きるという意志とか様々な困難に立ち向かう意志を力強く表現していると思う。

タイトルは作品を観ればその由来がわかるのだが、フランス人なら誰もが知っている民謡「澄んだ泉のほとりで」(原題:À la claire fontaine)の歌詞からとったものだそうだ。作中でも主人公と妹の娘、主人公と妹がそれぞれピアノを連弾しながら歌う場面があるのだが、その歌のなかの繰り返しの部分の歌詞から取られている。

Il y a longtemps que je t'aime
Jamais je ne t'oublierai

ちなみに英訳では
So long I've been loving you,
I will never forget you.

(歌詞の出所:http://www.mamalisa.com/?t=es&p=141&c=22)

他人に薦められた本や映画で、面白いと思った経験があまりないので、私は他人に本や映画を薦めることはしないのだが、フィリップ・クローデルの4冊の本は自分の子供に薦めた。薦めるどころか無理やり読ませたようなかっこうになった。4冊とも好反応があったわけではく、「ブロデックの報告書」にいたっては「おとうさん、これ無理」と言われてしまったのだが、もう少し成長してから改めて読み直して欲しいと思っている。この映画のほうは、まだ少し観るのは早いかもしれない。もっといろいろな経験をして、他人の心というものを想像する力がついたら、おそらくその頃にはDVDになっているはずなので、是非観て欲しいと思っている。