先月29日にスマトラの休火山が400年ぶりに噴火したというニュースを見て、富士山が最後に噴火したのはいつのことだったのだろうと調べてみた。1707年の「宝永大噴火」と呼ばれるものが直近の大きな噴火なのだそうだ。その後、小さなものがいくつかあって、徐々に落ち着いて今日に至っているらしい。しかし、「落ち着いて」というのは火山であることを止めてしまったということではないようで、最近も富士山の火山活動を示す地殻変動が観測されているという。
富士山が噴火する、というとこの世の終わりのような気がするのだが、1707年といえばそれほど遠い昔のことのようには思われない、のは私だけだろうか。宝永大噴火でどれほどの被害があったのか知らないが、そういう大事件以降も、こうして日本の歴史は続いている。富士山のひとつやふたつが噴火したといっても、それほど大きなことではないのかもしれない。尤も、日本中の火山という火山がいっぺんに噴火して日本列島が沈没した、というようなことにでもなれば、少しは話題になるかもしれない。それでもやがて忘れ去られるだろう。何百年か後、大英博物館あたりで「かつて、日本という国があった」というような企画展が開催されて、そこそこ入場者を集めるようなことになるだろうか。
マグマの流れの辺縁の淀みが少しずつ大きくなるとか、地殻のひずみが蓄積されるとか、ある方向性を持った変化が継続して、それを取り巻く全体の様相との間に齟齬や対立が生じると、そこにあったはずの均衡が破れてしまう。地殻のひずみのように、問題の所在がわかっていても手の施しようがないことというのは身の回りにいくらでもある。我々の日常というのは大小様々な無数の破綻と再生で成り立っているのだが、破綻と再生との間にバランスが保たれている限りにおいては、全体として不都合が無いのだろう。どちらが勝ってしまっても、何かとんでもない不都合に発展してしまう。その微妙な均衡を図るのが知恵であり文明であり文化なのではないだろうか。それは地道なことのようにも見えるが、我々の手の届かない世界に属することも多いのだから、地道だけではどうにもならないこともあるだろう。時には飛んでしまうことも必要かもしれない。
富士山が噴火する、というとこの世の終わりのような気がするのだが、1707年といえばそれほど遠い昔のことのようには思われない、のは私だけだろうか。宝永大噴火でどれほどの被害があったのか知らないが、そういう大事件以降も、こうして日本の歴史は続いている。富士山のひとつやふたつが噴火したといっても、それほど大きなことではないのかもしれない。尤も、日本中の火山という火山がいっぺんに噴火して日本列島が沈没した、というようなことにでもなれば、少しは話題になるかもしれない。それでもやがて忘れ去られるだろう。何百年か後、大英博物館あたりで「かつて、日本という国があった」というような企画展が開催されて、そこそこ入場者を集めるようなことになるだろうか。
マグマの流れの辺縁の淀みが少しずつ大きくなるとか、地殻のひずみが蓄積されるとか、ある方向性を持った変化が継続して、それを取り巻く全体の様相との間に齟齬や対立が生じると、そこにあったはずの均衡が破れてしまう。地殻のひずみのように、問題の所在がわかっていても手の施しようがないことというのは身の回りにいくらでもある。我々の日常というのは大小様々な無数の破綻と再生で成り立っているのだが、破綻と再生との間にバランスが保たれている限りにおいては、全体として不都合が無いのだろう。どちらが勝ってしまっても、何かとんでもない不都合に発展してしまう。その微妙な均衡を図るのが知恵であり文明であり文化なのではないだろうか。それは地道なことのようにも見えるが、我々の手の届かない世界に属することも多いのだから、地道だけではどうにもならないこともあるだろう。時には飛んでしまうことも必要かもしれない。