ドキュメンタリー作品が好きだ。といってもそれほど多く観ているわけではないのだが、ここ3年ほどの間に観たものでも「小三治」や「キャピタリズム」はそれぞれに面白かったし、もっと前に観た「カバの約束」もいろいろ感心しながら観た。「ようこそ、アムステルダム国立美術館へ」も、描かれている当事者にとっては切実な問題なのだろうが、作品の鑑賞者としては愉快なものだった。
原題は「HET NIEUWE RIJKSMUSEUM」で単純に訳せば「新国立美術館」あるいは「国立新美術館」だ。なぜ「ようこそ」なのか。あと末尾の「へ」も重要だ。その本当の理由は知らないが、私が考える理由は後ほど。
公共施設のように大勢の人々が関わるものの建設とか取り壊しとか大規模改修といったことを、誰もが納得できるようにとりまとめるということは不可能ではないだろうか。日頃の仕事や地縁血縁の範囲内での決め事ですら、なにかと軋轢を生じるのが一般的だろう。人それぞれに我があり、それぞれの秩序を持って生きているのだから、何人も集まって、互いに大小様々な利害が絡むようなことを決めるとなると、どうしても話が通じない人が現れてみたり、あちらを立てればこちらが立たずというような事態に陥ってみたり、議論が噛み合わなくなるのが当たり前だ。そうした場合に、どのように事態を収拾するかというところにそれぞれの文化があるように思う。しかし、自我に拠る問題とか個別最適の集合が全体最適にはならないことなどは、洋の東西を問わない普遍性のあることではないだろうか。
「ようこそ」はアムステルダム市街の国立美術館が舞台で、事の起こりは建物の中央を貫通していた通路の構造だ。欧州の古い大型建築物によくあるように、この美術館もシンメトリックな外観になっており、中央部分を三連アーチの大きな通路が貫通している。つまり、美術館に用の無い人が、単に通り抜けるためだけに美術館を通過する。アムステルダム市街は中央駅南側に広がる旧市街を核に環状に運河と道路が整備されていて、美術館はその規模の大きさ故に環状道路を少し外側に膨らませる瘤のようになっている。このため、特にオランダで普及している自転車の利用者にとっては、美術館を突っ切ることが近道になる。このため、美術館の貫通通路は地元住民にとっては交通問題なのである。
当初の改装案では、三連アーチによって三分割さている貫通通路の真ん中を歩道にして、館内部分に地階へ向かう大きな階段を設け、そこから館内へ入館者を誘導するようになっていた。三分割されている通路は真ん中が広く自転車が通る両端は狭くなっていること、入館者は自転車道を否応なく渡ることから、その案を知った地元のサイクリスト協会という市民団体が異議を唱えたのである。結局貫通通路は確保され、しかも真ん中の通路の幅と両端の2本合わせた通路幅を比較すれば、おそらく自転車用も歩行者用もそれほど変らないので、どちらを自転車用にしてどちらを歩行者用にするかというのは朝三暮四的なことのように感じられないこともない。しかし、例えば東京の道路事情で首都高の合流や分岐のぎこちなさが渋滞の原因となっていることを見れば、交通の流れは微妙なことで大きく変化するというのは確かであり、サイクリスト協会が異議を唱えるのも尤もなことだ。
一方で美術館側としては、建物も展示物の一部との認識があるので、安易な妥協は許されないという心情がある。しかも、市民団体の動きに呼応して行政や政治が当事者である美術館側に頭ごなしに改装案の修正を迫ったかのような印象を受けているので、特に改装の設計を担当している人たちや責任者である館長たちも黙って修正に取り組む状況ではなくなってしまう。
結局、何度も美術館と行政と市民団体との対話集会を重ね、改装案に修正を加え、ようやく工事許可が下りて、当初の予定を何年も超過して現在工事が進められている。振り返ってみれば、ちょっとしたボタンの掛け違いが事を大きくしている。それと、当事者意識の差異だろう。市民にしてみれば、美術館は美術館である以前に都市景観であり、そこに実質的に公道と化している通路があると認識されている。美術館は当然に美術館であり貫通しているとは言いながらも通路は美術館内部のものだと認識している。その差異をそのままに計画が動き出してしまったから、軋轢が生じてしまったということだろう。
全ての問題は美術館の入口の問題なのである。そこで、邦題が「ようこそ」となるわけだ。入口は物理的に美術館の入口でもあり、今回の騒動の入口でもある。一見すると妙に長いタイトルだと感じるのだが、映画を観終わってみれば、なるほどと思う。この映画は遠い国の美術館の問題を描いているのだが、我々は身近に大小無数の入口問題を抱えている。生活の中でこの美術館の改装問題と似たようなことに直面している人は、自分の問題の解法のヒントとして観てしまうかもしれないが、人は常に軋轢の芽を抱えて生きているというより普遍的なことも考えさせられる作品だ。
原題は「HET NIEUWE RIJKSMUSEUM」で単純に訳せば「新国立美術館」あるいは「国立新美術館」だ。なぜ「ようこそ」なのか。あと末尾の「へ」も重要だ。その本当の理由は知らないが、私が考える理由は後ほど。
公共施設のように大勢の人々が関わるものの建設とか取り壊しとか大規模改修といったことを、誰もが納得できるようにとりまとめるということは不可能ではないだろうか。日頃の仕事や地縁血縁の範囲内での決め事ですら、なにかと軋轢を生じるのが一般的だろう。人それぞれに我があり、それぞれの秩序を持って生きているのだから、何人も集まって、互いに大小様々な利害が絡むようなことを決めるとなると、どうしても話が通じない人が現れてみたり、あちらを立てればこちらが立たずというような事態に陥ってみたり、議論が噛み合わなくなるのが当たり前だ。そうした場合に、どのように事態を収拾するかというところにそれぞれの文化があるように思う。しかし、自我に拠る問題とか個別最適の集合が全体最適にはならないことなどは、洋の東西を問わない普遍性のあることではないだろうか。
「ようこそ」はアムステルダム市街の国立美術館が舞台で、事の起こりは建物の中央を貫通していた通路の構造だ。欧州の古い大型建築物によくあるように、この美術館もシンメトリックな外観になっており、中央部分を三連アーチの大きな通路が貫通している。つまり、美術館に用の無い人が、単に通り抜けるためだけに美術館を通過する。アムステルダム市街は中央駅南側に広がる旧市街を核に環状に運河と道路が整備されていて、美術館はその規模の大きさ故に環状道路を少し外側に膨らませる瘤のようになっている。このため、特にオランダで普及している自転車の利用者にとっては、美術館を突っ切ることが近道になる。このため、美術館の貫通通路は地元住民にとっては交通問題なのである。
当初の改装案では、三連アーチによって三分割さている貫通通路の真ん中を歩道にして、館内部分に地階へ向かう大きな階段を設け、そこから館内へ入館者を誘導するようになっていた。三分割されている通路は真ん中が広く自転車が通る両端は狭くなっていること、入館者は自転車道を否応なく渡ることから、その案を知った地元のサイクリスト協会という市民団体が異議を唱えたのである。結局貫通通路は確保され、しかも真ん中の通路の幅と両端の2本合わせた通路幅を比較すれば、おそらく自転車用も歩行者用もそれほど変らないので、どちらを自転車用にしてどちらを歩行者用にするかというのは朝三暮四的なことのように感じられないこともない。しかし、例えば東京の道路事情で首都高の合流や分岐のぎこちなさが渋滞の原因となっていることを見れば、交通の流れは微妙なことで大きく変化するというのは確かであり、サイクリスト協会が異議を唱えるのも尤もなことだ。
一方で美術館側としては、建物も展示物の一部との認識があるので、安易な妥協は許されないという心情がある。しかも、市民団体の動きに呼応して行政や政治が当事者である美術館側に頭ごなしに改装案の修正を迫ったかのような印象を受けているので、特に改装の設計を担当している人たちや責任者である館長たちも黙って修正に取り組む状況ではなくなってしまう。
結局、何度も美術館と行政と市民団体との対話集会を重ね、改装案に修正を加え、ようやく工事許可が下りて、当初の予定を何年も超過して現在工事が進められている。振り返ってみれば、ちょっとしたボタンの掛け違いが事を大きくしている。それと、当事者意識の差異だろう。市民にしてみれば、美術館は美術館である以前に都市景観であり、そこに実質的に公道と化している通路があると認識されている。美術館は当然に美術館であり貫通しているとは言いながらも通路は美術館内部のものだと認識している。その差異をそのままに計画が動き出してしまったから、軋轢が生じてしまったということだろう。
全ての問題は美術館の入口の問題なのである。そこで、邦題が「ようこそ」となるわけだ。入口は物理的に美術館の入口でもあり、今回の騒動の入口でもある。一見すると妙に長いタイトルだと感じるのだが、映画を観終わってみれば、なるほどと思う。この映画は遠い国の美術館の問題を描いているのだが、我々は身近に大小無数の入口問題を抱えている。生活の中でこの美術館の改装問題と似たようなことに直面している人は、自分の問題の解法のヒントとして観てしまうかもしれないが、人は常に軋轢の芽を抱えて生きているというより普遍的なことも考えさせられる作品だ。