9月9日付「モノサシを持つということ」のなかで触れた「ニッポンの風景をつくりなおせ」を読んだ。これは良い本だ。まず、半分以上が写真というのが良い。紙が良いのが良い。文字が大きいのが良い。話が簡潔にまとまっているのが良い。
冗談はさておき、この本はグラフィックデザイナーである梅原真の作品集である。どの作品の頁にも制作意図や受注の背景などが要領よくまとめられている。ところが、ひとつひとつの作品を眺めながらそこに添えられている文章を読んでいると、何故か梅原氏よりもその仕事を依頼した人への関心が強くなる。既に採用されて実績を残した作品群なので、これから仕事を獲りにいくというような貪欲さが影を潜めてしまったということは多少あるのかもしれない。しかし、それよりも大きいのは、梅原氏が依頼人に対して抱く共感や敬意が作品の背後にあるということではないだろうか。
「どらく」の記事のなかで柄本明が語っていたが、人は他人の言うとおりには動かない。どれほど些細なことであっても、行動には意志を伴うので、必ず動作のなかに己が出てしまう。ましてや、グラフィックデザイナーというのは表現することを生業とする人だ。人一倍自我を主張するものなのではないか、と思ってしまうのだが、そうではないらしい。並の表現者なら、そこに自分が個性だと思うものや表現だと思うものを闇雲に並べて終わってしまうのだろう。梅原氏が並でないのは、仕事の根本であるはずの依頼人の自我を自分自身の自我を通して、世間に受け入れられやすい形に翻案しているところにあるのではないだろうか。自己を消すことで自己を表現している、と言ってもよいかもしれない。
それが可能なのは、依頼人その人やその生産品を理解しようとする姿勢と、理解した結果としての共感や敬意があるから、依頼人の思いを自分のそれに重ね合わせることができるのだろう。えてして、人は自分の自我を通そうとする割に、他人の自我を認めようとはしないものだ。他人を認め自分を認めてもらうという対称性が欠けているから、多くの人間関係はぎくしゃくしたものに陥るのだと思う。関係性における対称性は当事者間で完結するものではなく、そこからさらに発展する取っ掛かりをいくつも備えているものだ。この件でうまくいったから次はあの件を一緒にやってみよう、とか、これはああいう問題があったが、あの件ならうまくいくのではないか、というように。対称性と発展性の基になるのは、相手の手の内を想像する知性と感性だろう。自我を他人に尊重して欲しいと思うなら、自分が相手の自我の在り様を想像できなければ対称性は生れない。対称性があってこそ、信頼が生れ、そこからさらに関係が発展するのである。
それにしても、ここに紹介されているものはどれも試してみたいものばかりである。ものが本当に良いのか、梅原氏の作品が素晴らしいのか、その両方なのか。とりあえず、四万十ドラマのサイトで栗の渋皮煮を注文してみた。大方精糖生産組合の黒砂糖は「釜オーナー制度」というものがあるので、これを申し込んでみようかどうしようかと思案している。
ところで、この本で見つけたことなのだが、「馳走」というのは「馳」も「走」も食べることとは関係のなさそうな文字だ。それが「馳走」というのはもてなし料理の意味になる。なぜか。客においしいものを食べてもらおうと、食材を求めて走り回るから「馳走」なのだという。50年近くも生きてきて、そんなことも知らなかったし、考えたことすらなかった。もてなし料理というのは豪華な料理ということではなく、おいしいものを食べてもらおうと思って食材を集めて作った料理なのである。要は気持ちの問題だ。
いまどきのファミレスやファーストフードの料理はそれなりの味に仕上がっている。しかし、どういうわけか、食事をして店を後にするときに、心が満たされた感じがしないのは私だけだろうか。友人や知人の家で手料理を振舞われたり、手作りの弁当を用意してもらったとき、たとえ味そのものは凡庸でも、食べ終わって、なんともいえない幸福感に包まれるのは私だけだろうか。料理に限らず、物事はその動機が基礎にあって、その気持ちをどのように表現するか、ということで価値が決まるのではないだろうか。動機だけあっても、それを具体化できなければ相手に伝わらないし、どれほど技巧を凝らしてみても動機が不純なら、やはりそこには何も生れない。
なにはともあれ、栗の渋皮煮が楽しみだ。
冗談はさておき、この本はグラフィックデザイナーである梅原真の作品集である。どの作品の頁にも制作意図や受注の背景などが要領よくまとめられている。ところが、ひとつひとつの作品を眺めながらそこに添えられている文章を読んでいると、何故か梅原氏よりもその仕事を依頼した人への関心が強くなる。既に採用されて実績を残した作品群なので、これから仕事を獲りにいくというような貪欲さが影を潜めてしまったということは多少あるのかもしれない。しかし、それよりも大きいのは、梅原氏が依頼人に対して抱く共感や敬意が作品の背後にあるということではないだろうか。
「どらく」の記事のなかで柄本明が語っていたが、人は他人の言うとおりには動かない。どれほど些細なことであっても、行動には意志を伴うので、必ず動作のなかに己が出てしまう。ましてや、グラフィックデザイナーというのは表現することを生業とする人だ。人一倍自我を主張するものなのではないか、と思ってしまうのだが、そうではないらしい。並の表現者なら、そこに自分が個性だと思うものや表現だと思うものを闇雲に並べて終わってしまうのだろう。梅原氏が並でないのは、仕事の根本であるはずの依頼人の自我を自分自身の自我を通して、世間に受け入れられやすい形に翻案しているところにあるのではないだろうか。自己を消すことで自己を表現している、と言ってもよいかもしれない。
それが可能なのは、依頼人その人やその生産品を理解しようとする姿勢と、理解した結果としての共感や敬意があるから、依頼人の思いを自分のそれに重ね合わせることができるのだろう。えてして、人は自分の自我を通そうとする割に、他人の自我を認めようとはしないものだ。他人を認め自分を認めてもらうという対称性が欠けているから、多くの人間関係はぎくしゃくしたものに陥るのだと思う。関係性における対称性は当事者間で完結するものではなく、そこからさらに発展する取っ掛かりをいくつも備えているものだ。この件でうまくいったから次はあの件を一緒にやってみよう、とか、これはああいう問題があったが、あの件ならうまくいくのではないか、というように。対称性と発展性の基になるのは、相手の手の内を想像する知性と感性だろう。自我を他人に尊重して欲しいと思うなら、自分が相手の自我の在り様を想像できなければ対称性は生れない。対称性があってこそ、信頼が生れ、そこからさらに関係が発展するのである。
それにしても、ここに紹介されているものはどれも試してみたいものばかりである。ものが本当に良いのか、梅原氏の作品が素晴らしいのか、その両方なのか。とりあえず、四万十ドラマのサイトで栗の渋皮煮を注文してみた。大方精糖生産組合の黒砂糖は「釜オーナー制度」というものがあるので、これを申し込んでみようかどうしようかと思案している。
ところで、この本で見つけたことなのだが、「馳走」というのは「馳」も「走」も食べることとは関係のなさそうな文字だ。それが「馳走」というのはもてなし料理の意味になる。なぜか。客においしいものを食べてもらおうと、食材を求めて走り回るから「馳走」なのだという。50年近くも生きてきて、そんなことも知らなかったし、考えたことすらなかった。もてなし料理というのは豪華な料理ということではなく、おいしいものを食べてもらおうと思って食材を集めて作った料理なのである。要は気持ちの問題だ。
いまどきのファミレスやファーストフードの料理はそれなりの味に仕上がっている。しかし、どういうわけか、食事をして店を後にするときに、心が満たされた感じがしないのは私だけだろうか。友人や知人の家で手料理を振舞われたり、手作りの弁当を用意してもらったとき、たとえ味そのものは凡庸でも、食べ終わって、なんともいえない幸福感に包まれるのは私だけだろうか。料理に限らず、物事はその動機が基礎にあって、その気持ちをどのように表現するか、ということで価値が決まるのではないだろうか。動機だけあっても、それを具体化できなければ相手に伝わらないし、どれほど技巧を凝らしてみても動機が不純なら、やはりそこには何も生れない。
なにはともあれ、栗の渋皮煮が楽しみだ。