熊本熊的日常

日常生活についての雑記

モノサシを持つということ

2010年09月09日 | Weblog
「おまんのモノサシ持ちや!」という本を読んだ。以前、似たようなタイトルで「ひとりよがりのものさし」というのを読んだこともある。「おまんの」は高知県在住のデザイナー、梅原真を取り上げた日経ビジネスオンラインの連載記事をまとめたものである。「ひとりよがり」のほうは目白で古道具屋を営む坂田和實が「芸術新潮」に連載していたものをまとめたものだ。片や記者がまとめたもので、片や本人が書いているという違いはあるが、どちらも豊かさとか幸せというものについての話であるように思う。

ジャーナリストの文章というのは、人を食っているように感じられて、好きにはなれないのだが、「おまんの」も例外ではない。その所為もあるのか、興味深い内容なのだが、その割には自分の琴線に触れる記述が少ない。それでも梅原という人には興味をそそられたので、ご本人の言葉が聞きたいと思って検索をしたら、「ニッポンの風景をつくりなおせ」という著作があったので、今日、いつも利用している書店に発注した。

ところで、「おまんの」のエッセンスと思われた箇所を引用すると以下の3箇所を挙げることができる。

ものが溢れている今、「モノ」や「コト」の情報はストレートには消費者の心には届かない。だが、「モノ」や「コト」と消費者をつなぐコミュニケーションのパイプを広げれば、消費者が商品を認知し、コミュニケーションのスイッチがオンになる可能性は増える。このコミュニケーションのパイプを広げる有効なツールがデザイン――と梅原は考える。
(篠原匡「おまんのモノサシ持ちや!」日本経済新聞社 103頁)

「…商売はこころざし。顔と顔を突き合わせてこいつはエエな、と思うたところから商売は始まるんじゃ。自分の考え方や人格を表明せんと、誰がものを買うてくれるか」
(同上 159頁)

「豊かさとは、自分のモノサシを持つこと。押しつけられた価値観でなく、自分のモノサシを持つこと。それが、幸せに生きるということやと思う」
(同上 228頁)

「ひとりよがりのものさし」のほうからは以下を引用させていただく。

僕とあなたは違う人間。同じものを同じくらい好きということはありえない。
(坂田和實「ひとりよがりのものさし」新潮社 15頁)

ソバチョコは骨董の入門編だとよく言われるけれど、トンデモナイ。こういう数が多く、一見何ともない物の選択こそ、その人の人間性が表れる。だからソバチョコは楽しい物ではあるけれど、一番怖い物でもある。
(同上 57頁)

自我という禁断の実を食べてしまった僕達近代人は、ものを創り出して行く時に、自己表現ということを避けて通るのは難しいのかもしれないが、この道は孤独で、厳しくて、ひとり天才だけが生き残れる道でもあるのだろう。
(同上 61頁)

自分のモノサシを持て、と言うのはたやすいが、モノサシを持つにはたくさんのものに出会わなければ目盛を打つ基準を考え出すことができない。世間の既存の価値観を知ることも必要だし、逆に、偏見や予断を排して、あるものをあるがままに見るという訓練も必要だろう。よほど特異な人でない限り、我々は自分の身の回りのものを見るときに、どうしても習慣と安直さに流されがちになるものだ。例えば、値段とかブランドとかメディアで紹介されていたというような誰が考え出したかよくわからないけれど具体的な記号に目を奪われて、ものそのものを見る眼は霞んでしまう。

結局、たくさんのものを見て、その背後にある物語を聞いて、それを作る人の想いを知るというような経験を積むことでしか、我々は自分のモノサシというものを持つことはできないのではないだろうか。それはつまり、自分のなかのコミュニケーションの経験の厚みということだ。

経験というのは体験とは違う。何かに触れたという体験をしたとき、その体験について理解し、そのことを了解するということだ。つまり、考えるという行為抜きに経験するということはありえない。多くのものに触れ、多くの人と交流し、そこで向かい合っているものや人についてあれこれ考えるということをしなければ、コミュニケーションを経験したことにはならない。

そう考えると、自分のモノサシを持つのは至難の技だ。しかし、少なくとも自分のモノサシを持とうという意志があれば、ものや人を前にしたときに相手を理解しようと意識するはずだ。そういうことを積み重ねていけば、多少は自分のものの考え方の軸足のようなものが築きあげられて、世界が少しははっきりと見えるようになるのかもしれない。