野暮用で昼間に出かける用事があったので、遅めの昼食を職場近くのカフェで食べた。料理の説明書きに「オーガニック」だの「ヘルシー」だのという文言が踊っているのだが、こういうものを目にするたびに苦笑が漏れてしまう。客に出す料理が、客の健康を気遣ったものであるのは当然のことだろう。それを殊更に強調することの下品さのようなものを感じてしまう。また、客のほうも「オーガニック」だの「フェアトレード」だのという触れ込みのものを、そういうものを口にすることで何か良いことをしているかのような幻想を抱く向きが少なくないようだ。ある種のブランド信仰のようなものだろう。以前にコーヒー豆の業者の人と話をしたときに、「オーガニック」とか「フェアトレード」といったことを謳うと確実に購入する顧客層がある、と語っていたのをふと思い出した。
このカフェは上場企業が経営しているものなので、利益を追求しなければならないという宿命を負っている。株式を公開するということは利益成長を義務付けられているようなものなので、なりふり構わず商売に邁進しなければならず、上品だの下品だのと気にしている余裕はないだろう。確かに、農薬や化学肥料を大量に使って作られたものをイメージすれば、あたかもその農薬を食べるかのような印象を持ってしまうものだし、それは健康に良くないと感じるものだ。幾多の公害事件や食の安全に対する脅威を経験してきた消費者にとって、そうした安全イメージが魅力的に感じられることは至極自然なことだ。
しかし、有機農法というのは必ずしも農薬や化学肥料を使わないというものではない。使用量を抑制する努力をしているということで、その分、生育が自然に近くなり、収穫までの手間隙も余計にかかるので、見た目は少し悪くなることもある上にコストもかかる。味のほうは、有機農法のほうが常に無条件に美味しい、というわけにもいかないという現実もある。そうしたものを使った料理を売るのだから、敢えて「オーガニック」とか「ヘルシー」というイメージを強調して、いかにも特別なものという雰囲気を出さないと消費者に対してコスト高を正当化しにくいという事情は理解できる。
ただ、本当に食の安全を考えるのなら、自分で何か農作物を栽培してみなければ「考えた」ことにはならない。プランターでちょっとしたものを作ってみるだけで、種を蒔いて収穫するまでにどれほど手間がかかるものか、病気や害虫のリスクを効果的に低減させることがどれほど難しいか、という印象くらいは感じることができるだろう。自分では農に関することを何も経験せずに食の安全など語ることはできまい。人の発想は経験を超えることはできないのだから。私は農作物という、安価でなければ社会が成立しない経済の基幹商品において、それを作ることが生業として成立するほど安定的に大量に生産するという仕組みを確立するには、農薬や化学肥料は不可欠だと思う。食の安全とかエコロジーに関心があって、しかもそれを生活のなかで実践するだけの余裕のある人だけが、農薬と化学肥料に支えられた仕組みをやや外れて多少のプレミアムの付いた「オーガニック」や「ヘルシー」という商品で生活を彩ることができるのである。つまり、一般に言われているような「オーガニック」や「ヘルシー」はファッションなのだ。
食の安全というのは、誰もが考え実践しなければならない当たり前のことなのに、それを殊更に強調すると、その当たり前であるはずのことがブランドのような錦の御旗になってしまうというところに、滑稽と恐怖がある。
「フェアトレード」も似たようなものだろう。「フェア」は誰にとって「フェア」なのか、ということを果たしてどれほどの人が考えているだろう。私が「フェアトレード」と関わるのはコーヒーの分野だけなのだが、「フェアトレード」を謳った豆でおいしいと思ったものに出会ったことがない。これは別の機会があれば、考えてみたい。
このカフェは上場企業が経営しているものなので、利益を追求しなければならないという宿命を負っている。株式を公開するということは利益成長を義務付けられているようなものなので、なりふり構わず商売に邁進しなければならず、上品だの下品だのと気にしている余裕はないだろう。確かに、農薬や化学肥料を大量に使って作られたものをイメージすれば、あたかもその農薬を食べるかのような印象を持ってしまうものだし、それは健康に良くないと感じるものだ。幾多の公害事件や食の安全に対する脅威を経験してきた消費者にとって、そうした安全イメージが魅力的に感じられることは至極自然なことだ。
しかし、有機農法というのは必ずしも農薬や化学肥料を使わないというものではない。使用量を抑制する努力をしているということで、その分、生育が自然に近くなり、収穫までの手間隙も余計にかかるので、見た目は少し悪くなることもある上にコストもかかる。味のほうは、有機農法のほうが常に無条件に美味しい、というわけにもいかないという現実もある。そうしたものを使った料理を売るのだから、敢えて「オーガニック」とか「ヘルシー」というイメージを強調して、いかにも特別なものという雰囲気を出さないと消費者に対してコスト高を正当化しにくいという事情は理解できる。
ただ、本当に食の安全を考えるのなら、自分で何か農作物を栽培してみなければ「考えた」ことにはならない。プランターでちょっとしたものを作ってみるだけで、種を蒔いて収穫するまでにどれほど手間がかかるものか、病気や害虫のリスクを効果的に低減させることがどれほど難しいか、という印象くらいは感じることができるだろう。自分では農に関することを何も経験せずに食の安全など語ることはできまい。人の発想は経験を超えることはできないのだから。私は農作物という、安価でなければ社会が成立しない経済の基幹商品において、それを作ることが生業として成立するほど安定的に大量に生産するという仕組みを確立するには、農薬や化学肥料は不可欠だと思う。食の安全とかエコロジーに関心があって、しかもそれを生活のなかで実践するだけの余裕のある人だけが、農薬と化学肥料に支えられた仕組みをやや外れて多少のプレミアムの付いた「オーガニック」や「ヘルシー」という商品で生活を彩ることができるのである。つまり、一般に言われているような「オーガニック」や「ヘルシー」はファッションなのだ。
食の安全というのは、誰もが考え実践しなければならない当たり前のことなのに、それを殊更に強調すると、その当たり前であるはずのことがブランドのような錦の御旗になってしまうというところに、滑稽と恐怖がある。
「フェアトレード」も似たようなものだろう。「フェア」は誰にとって「フェア」なのか、ということを果たしてどれほどの人が考えているだろう。私が「フェアトレード」と関わるのはコーヒーの分野だけなのだが、「フェアトレード」を謳った豆でおいしいと思ったものに出会ったことがない。これは別の機会があれば、考えてみたい。