熊本熊的日常

日常生活についての雑記

無限なる有限

2012年04月01日 | Weblog

昨年12月の失業以来かなり暇だったので、うろうろおろおろしながらいろいろ考えた。殊に広島、八丈島、松島と悲惨な歴史を抱えた「島」を歩いているだけで、原爆だの遠島だの震災だの、生き死ににかかわる重大事件をどのように捉えたのだろうかという素朴でありながら答えの無い問いが頭の中をぐるぐる巡った。その余韻がさめやらぬなか正岡子規の『病牀六尺』を読了。新聞『日本』に死の2日前まで書き続けたという彼の随筆集を読み、どうして人は生きるのだろうかと考えずにはいられなかった。

どうして生きるのか、生きようとするのか、と何故疑問に思うかといえば、死ぬことが運命付けられているからだ。昨年7月27日に厚生労働省から発表された「平成22年簡易生命表」によれば平成22年における日本人の平均寿命(0歳における平均余命)は男性が79.64年、女性は86.39年だ。いったいどれほどの人が「生まれてきてよかった」とか「楽しい人生だった」と思って一生を全うするのだろうか。

昔、「枝雀寄席」という番組があって、そのなかで枝雀がゲストと15分ほど対談をするというコーナーがあったらしい。そのゲストで中島らもが出演した回があり、その時の話題が「人は何故生きるのか」ということだった。なぜこのような話題だったのかというと、当時、朝日新聞に「明るい悩みの相談」というコーナーがあり、中島が回答者を務めていた。そこに中学生の質問で「人は死んでしまうのになぜ生きなければならないのですか」というものがあって、それに対する中島の回答に枝雀が興味を覚えて番組のゲストに招いたのだという。その回答の要旨は、人間は数多くの細胞から構成されていて、その一つ一つは生滅をしているけれど、そうした代謝によって人間の生命が維持されており、それを人類という単位に敷衍してみれば、ひとりひとりの人間がそれぞれに生活を子へ孫へとつなぐことで人類が存在できる、というようなものだった。この対談の様子はかなり最近までYouTubeにアップされていたのだが、複数の著作権者からの抗議により削除されてしまった。中島の回答には私もなるほどと思えた。要するに、生命という漠然としたものが存在し、それが持続するという方向性を持っている、という大前提を想定するのである。その漠然とした生命なるものを生き長らえさせるべく生態系を数多の生物が構成し、それぞれのサイクルに応じて代謝する。さらに個々の生物はやはり数多の細胞によって構成され、それぞれの細胞のサイクルに応じて代謝が行われることでその命を保つわけだ。そうやって、それぞれが立場によって構成するものであり、構成されるものという構造体になっていて、代謝によって活力が維持されるようになっている。「なぜ生きるのか」ということは、実はどうでもよいことで、答えとしては「生まれてしまったから」というのが正解だ。生まれたからには生きなければならないのであって、別に何か取って付けたような理由のために生きているのではないのである。

しかし、その生命というものがある地球はいつか必ず消滅する。地球は太陽の活動によって支えられているわけだが、太陽というのはガスの塊のようなもので、自ら激しく燃焼して光と熱を発し、その光と熱で地球上の生命が維持されている。ガスというのは燃焼すれば無くなってしまう。つまり、天体としての寿命を全うするわけで、最期は超新星爆発を起こすらしい。となると、そのかなり前から太陽の様子がおかしくなるはずで、そうなれば地球上の環境も現在とはかなり違ったものになるはずだ。おそらく太陽よりも先に地球のほうがどうにかなってしまうのだろう。

それならば、地球がいつかは無くなってしまうのに、そこで暮らす我々が生きなければならないのは何故だろうか?