平日の朝、平均的な勤め人が出勤するような時間に遊びに出かける。東京駅を8時03分に発車する新幹線で静岡に向かう。席が13号車だったが、車内の大部分の席が某大手旅行代理店の団体客用に押さえられていて、私のような部外者は肩身が狭い思いをする。私の席は3人がけの窓際で、隣の二人はその団体の人たちだ。会話の端々から京都へお花見に出かけるらしいことが窺い知れる。なにもわざわざ京都まで花見に出かけなくても近所にいくらでも桜は咲いているだろうにと思うのだが、花は二の次三の次ということだろう。座席の前のテーブルには缶入りスーパードライとおつまみセットが並んでいる。東京駅発車前に既に良い塩梅に出来上がっていて、サラミの臭いやら裂いかの臭いが漂っていた。早くに出来上がってしまった所為で熱海を過ぎる頃には二人とも夢の中だ。せっかく良い気持ちに浸っているところを邪魔するのは忍びなかったのだが、「恐れ入ります」と声をかけて静岡で下車する。
静岡駅前で路線バスに乗り、登呂遺跡入口という停留所でバスを下りる。少し歩くと遺跡に着く。遺跡の一画に芹沢銈介美術館がある。前回、ここを訪れたときは駅前でレンタカーを借りたのだが、そんな必要がないほど便利の良い場所であることがわかったので、今回は路線バスを利用した。
現在の展示テーマは「暮らしにとけこむデザイン」ということで、芹沢作品を使って茶の間や飲食店客室を作ったものの展示もある。実際に芹沢は商業デザインも手がけていて、先日仙台で訪れた光原社も看板や包装紙などが芹沢の手になるものだ。今日ここへ来てみようと思ったのは、今でも使われている芹沢作品を目の当たりにした所為もある。都内でもざくろというしゃぶしゃぶの店が看板や店内の暖簾などに芹沢作品を用いている。今回の展示を見て知ったのだが、芹沢が手がけた商業デザインには店舗内装の他にも、販促用絵皿やカレンダー、商品パッケージ、など多岐に亘り、なかには日本航空のパンフレットもある。商業デザインというのは顧客を吸引するためのものなのだから、今も昔も商売の損得という視点で作成されているはずだ。それが、なんとなく今のもののほうが手間を惜しむかのような印象を受けるのは私だけだろうか。商売なのだからコストを低く抑える工夫が必要なのは理解できるが、あまり安直にそういうことをやられると馬鹿にされているような気がする。デザインとは関係ないが、ポイント制とかセールなどはそういうことを感じさせる最たるものだ。前にも書いた記憶があるが、現在の値段よりも安く売ることができるのなら、なぜ最初からそういう値付けにしないのだろうか。理由がどうあれ、値下げ前に買った人に対してはぼったくったのと同じことだろう。人の足下を見る商売が長続きするはずはない。卑小で狡猾な姿勢が商品のデザインや販売姿勢に反映されていないかどうか、売る方も買う方もじっくりと見直さないと、生活はますます軽少浅薄になり、景気は永遠に良くならないのではないか。デフレスパイラルの本質は、市場原理の貫徹に伴う比較優位の追求というよりも、自分自身の価値観で物事を判断する姿勢の欠如ということではないかと思う。
別に芹沢の作品が好きだとか嫌いだとか言っているのではないし、それがあるべき姿だと主張するつもりもない。むしろ、展示されている家庭の居間や飲食店の内装には、あざとさすら覚える。しかし、実際に品物を目の前にしたとき、それを作る人の気持ちを想像できないようでは人として生きる甲斐がないだろう。気持ちを想像するには、そのものについてある程度の知識を持たないといけない。つまり、自分の生活、自分が生きるということについて、どれだけあれこれ意識するかということが身の回りのものを選択する際に問われているのである。河井寛次郎の言葉に「モノ買ってくる 自分買ってくる」というのがあるのだが、そういう基準でものごとを判断する、また判断するに足るだけの知識を持とうと心がけるなら、ひとりひとりの生活はもっと違ったものになるだろうし、経済全体ももっと活発になるように思う。尤も、それは無いものねだりということかもしれない。
昼食は登呂遺跡近くにあり、芹沢もしばしば足を運んでいたという臼もちの家という店で蕎麦とおこわのセットをいただく。この店のセットメニューには食後に安倍川餅が付いてくる。この店も農家のような風情の建物だ。店内に囲炉裏が切ってあり、炭が起こしてあった。今日は天気は良いのだが、風が強く気温も今の時期にしては低めだったので、囲炉裏の火が心地よかった。
バスで静岡駅へ戻り、東海道本線で掛川へ行く。掛川には資生堂のアートハウスと企業資料館があり、無料で公開されている。去年の5月頃、芸大通信課程の工芸論という科目の面接授業に出席した際に担当教員から勧められていて、いつか出かけようと思っていたのである。掛川駅から資生堂のこれらの施設までは徒歩20分ちょいというところ。駅前からここまでの間にはCoCo壱番屋の店舗が一軒、寿司屋が一軒、無国籍料理という看板を掲げた店が一軒あるだけだ。昼食を静岡で済ませておいて正解だった。
銀座にも資生堂のギャラリーがあるが、企業資料館のほうはそのギャラリーと似た展示内容である。アートハウスのほうは「第三次椿会再現展1」という企画展を開催していて、これがとても良かった。感性も知性も貧弱なので、あまりものに感じるということはないのだが、この展示は心底「いいもん観たなぁ」と思えるものだ。それほど大きな展示スペースではないという所為もあるのかもしれないが、展示されていた作品全てに魅入ってしまった。なかでも山本丘人と奥村土牛の作品はそれぞれ3点ずつだったが、それぞれに好きだ。山本丘人は何年か前に平塚市美術館で回顧展が開催されたときに観た頃は、まだそれほど興味を覚える作家ではなかった。それが今日は俄然として私の眼を惹き付けた。作品はもう変わりようがないのだから、私の眼のほうがこの間に変化をしたということなのだろう。私の文章力では、何をどう説明しても惹かれる理由を伝えることはできず、かえって自分のなかのフラストレーションを高めるだけに終わりそうなので、印象を叙述するということは差し控えておく。岡鹿之助も確か初めてそれと意識して眺めたのはブリヂストン美術館の常設だったと思うが、やはり今日改めて観るとかっこいいと思うのである。今日はこの作品展を観ただけでも遠出をしてきた甲斐があった。
帰りは掛川発午後3時32分のこだまで東京へ戻る。東京駅から中央線で中野に出たら午後6時前に付いたので、なかのZEROに行く途中にあるイタリア料理屋で前菜の盛り合わせと仔羊のカツをいただく。腹ごしらえをして落ち着いたところで、落語教育委員会を聴く。この3人のなかでは喜多八が一番好きだ。でも、いつも感心するのは喬太郎の人物描写と言葉へのこだわりだ。特に今日の「子別れ」のように子供が登場する話での子供の生意気具合が尋常ではなく、下手をすればエログロナンセンスに陥るのではと思わせるほどだが、さすがにそうならないのは台詞の言葉が十分に練られている所為ではないかと思う。
この春、落語界では春風亭一之輔が大抜擢で真打に昇進したが、二つ目クラスの若手のレベルが高くなっているのだろうか。落語協会が運営しているインターネット落語会で最近観た二つ目の人たちの高座も好きだし、今日の開口一番もなかなかのものだった。
今日の演目
「真田小僧」 三遊亭美るく
「安兵衛狐」 三遊亭歌武蔵
(仲入り)
「だくだく」 柳家喜多八
「子別れ」 柳家喬太郎
開演 19時00分
終演 21時15分
会場 なかのZERO 小ホール