熊本熊的日常

日常生活についての雑記

あこがれのひと

2012年04月28日 | Weblog

伝説の詩集、といっても過言ではないと思うのだが、茨木のり子の生前最後の詩集『倚りかからず』が詩集としては異例の売れ行きとなったのは、それだけの内容があればこそだろう。そのあとがきのなかで茨木はこう書いている。「振りかえってみると、すべてを含めて、自分の意志ではっきりと一歩前に踏み出したという経験は、指折り数えて、たったの五回しかなかった。」(『茨木のり子全詩集』花押社 250頁)

昨日、このブログのなかで意志云々と書いたが、そもそも意志というものを意識することがないというのが大方の生き方なのではなかろうか。かくいう自分もこれまでに自分の意志でこうしたああしたと断言できることがどれほどあるか心もとない。茨木がこの言葉を記したのは1999年秋、73歳のことである。私には言葉を紡いで詩という作品に結実させることが意志の力そのもののように思えるのだが、それを生業としているはずの人が意志の力で一歩踏み出したのが「たったの五回」というのである。やはり意志というのは重い言葉だと思う。

引用の注にあるように、手元に『茨木のり子全詩集』がある。ひとつふたつ詩を読んで、気に入ればきっと同じ作者の他の作品も読みたくなるだろうと思って全詩集を買ってしまった。今日届いたばかりなのでまだ殆ど読んでいないが、少なくとも『倚りかからず』に関しては全て暗誦したいほどに気に入った。全部紹介したいのだが、とりあえず詩の題だけ羅列しておく。

「木は旅が好き」
「鶴」
「あのひとの棲む国」
「鄙ぶりの唄」
「疎開児童も」
「お休みどころ」
「店の名」
「時代おくれ」
「倚りかからず」
「笑う能力」
「ピカソのぎょろ目」
「苦しみの日々 哀しみの日々」
「マザー・テレサの瞳」
「水の星」
「ある一行」

あとがきによれば、原稿がまとまらないうちに装画が届いてしまい、それが椅子の絵だったので詩集の題名を『倚りかからず』にしたとのこと。それがほうんとうなのかどうなのか知らないが、表題にふさわしいのは確かだと思う。

「倚りかからず」
もはや
できあいの思想には倚りかかりたくない
もはや
できあいの宗教には倚りかかりたくない
もはや
できあいの学問には倚りかかりたくない
もはや
いかなる権威にも倚りかかりたくはない

ながく生きて
心底学んだのはそれぐらい
じぶんの耳目
じぶんの二本足のみで立っていて
なに不都合のことやある

倚りかかるとすれば
それは
椅子の背もたれだけ
(『茨木のり子全詩集』花押社 242−243頁)

こういう詩を書くことのできるひとにあこがれてしまう。 

茨木のり子全詩集
茨木 のり子
花神社