加齢で眼が疲れ易くなり、電車の中で活字を追うのが辛いので、以前にも増して読書から縁遠くなった。不思議なもので、それでもついつい読んでしまうものもある。先日亡くなったアントニオ・タブッキの傑作と言われる「供述によるとペレイラは……」は難なく読通してしまった。
過去を振り返るとき、人は神になる、などという。あのときはああすべきだった、そういうときはこういうふうにするものだ、という具合にまるで神にでもなったかのように過ぎ去った事象について論評できるのだ。今という時代に20世紀前半のファシズムの台頭を回顧すれば、ヒトラーがどうだったとか、ムッソリーニが、とか、日本の軍国主義は、とか、なんとでも批評できる。しかし、その時代に生きていたとしたら、果たして同じように明快に事の是非を判断して行動していただろうか。
政治とは無縁であった市井の人々が日々の暮らしのなかで、ごく自然に体制に染まっていく、あるいは反抗していく流れのようなものがあるのだろう。声高に主義主張を叫ばなくとも、その時々に自分が良かれと思った行動を重ねていくうちに、結果として残虐行為の先頭に立っていることだってあるだろうし、逆に反体制派の重鎮に収まっていることもあるだろう。人は生まれることを選べない。強い意志を持って事に当たれば云々、というようなことを口にする奴に限ってそういう経験が無かったりするものだ。意志の強弱と人生の結果というのは然して関係が無いのではなかろうか。そもそも生まれたことさえ自分の意志ではないのである。存在の大前提が偶然の生なのに、その生の持ち主が「意志」を持ったところで、それがどれほどのものだというのだろう。
主人公のペレイラは長年に亘って大手新聞社の社会部記者として活躍してきたが、どういうわけか弱小新聞『リシュボア』の文芸部長に転身した。「部長」といっても部下がいるわけではない。彼ひとりで週に1回掲載される文芸面の制作をする。自分が好きなフランスの短編小説を翻訳して紹介したり、著名な文筆家の死亡追悼文を書いたり、記事の執筆から編集までひとりで担当している。かつて社会部の記者であっても、今は世間には殆ど興味はなく、文芸の世界だけに生きている。親しい友人があるわけでもなく、何か話したいことがあれば数年前に亡くなった妻の遺影に話しかける。肥満で、おそらくその所為で心臓も悪く、医師からはダイエットを勧められているが、大量の砂糖を入れたレモネードとチーズ入りのオムレツが大好きで、行きつけのカフェ・オルキディアでは必ずといっていいほどこれらのうち少なくとも片方を給仕のマヌエルに注文する。
そのペレイラがふとしたきっかけで結果的に反体制運動の活動をしているらしい若者を支援することになり、その若者がペレイラの家にいるところを政治警察に踏み込まれる。そして私生活までも網羅するかのような「供述」を残すことになる。供述の後、ペレイラがどうなったのかはわからない。彼の「供述」を読めば、彼の生活に検挙されるようなことがあるとは思えないし、そもそも政治性などとは無縁の人物のように見える。しかし、そういう人物を本人も意識しないままに社会の動静に関与させるのが政治というものなのだろう。そこに政治の恐さがあり、社会の、人間の恐さがある。他人を批評するのは容易い。容易いことのなかに政治的な方向性をそっと忍ばせて、特定の個人や団体に対する評価として流布させれば、おそらくその個人や団体がどのようなものであるかということにかかわらず、そこに崇拝の対象も憎悪の対象も「自然に」創りだされるのだろう。例えば、世間で話題の商品やサービスのために行列ができることがある。評判のラーメン屋の前にある行列を作るのは果たしてその味だけだろうか。
供述によるとペレイラは… (白水Uブックス―海外小説の誘惑) | |
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