子供と一緒に森美術館で開催中の「アラブ・エキスプレス展」を観てきた。この展覧会に限らず、近頃の現代アートの展示を観ていつも感じるのは、英語の「art」と日本語の「美術」や「芸術」は同じものではないということだ。「芸」のほうは、その表現技法に芸術家の発想や技量の独自性があるので、それを「芸」と呼ぶことはできるだろう。しかし、あまり押し付けがましく作家の自我や作家の眼を通した「現実」を主張されても、そこにあざとさを感じることはあっても「美」は感じられない。アラブの「アート」は、自分たちが置かれた「悲惨」な日常を闇雲に「表現」しているだけにしか見えなかった。
人は生まれることを選べない。生を与えられたら、それを全うするよりほかにどうしょうもない。戦争状態の場所に生を受けたら、そこで生きるよりほかにどうしようもないのである。それを変えたいと思うなら、その社会を変えるか、自分が生活の場とする社会を替えるよりほかに選択肢があるだろうか。「アート」という形で不条理を告発するのも「社会を変える」行為ではある。しかし、そこから何か豊かなものが生まれるだろうか?他者を糾弾する手段でしかないのなら、それは「アート」に名を借りた政治にしか見えない。政治が美しい、政治を考えると心が解放されるというのなら、それを「アート」と呼ぶのに何の不足もない。アラブという土地で生活をしたことがないので何とも言えないのだが、権力に対して暴力で向かい合う限り、それは双方の消耗戦にしかならないように思われる。つまり、どちらも相手を否定していながら、傍目にはどちらのやっていることも同じではないかと思うのである。あの展示会場にあった作品群が醸し出していた緊張感は、彼らが権力の側に立ったときに、今の権力側と同じように被支配層に向き合うことを示唆しているように見える。
展示作品のなかにイラク人作家の手になる「I’m sorry」というインスタレーションがある。アメリカの街を歩いていて、その土地の人たちと話をしているとき、「どこから来たのか」と尋ねられることがあるという。そのときにイラクからだというと、多くの人が「I’m sorry」と言うのだそうだ。大量破壊兵器を保有しているとの名目で軍隊が乗り込んでみたものの、結局はそういうものが発見できず、その戦争の後遺症で未だに政情が混乱を続けている。当のイラク人にとってみれば、いまさら謝ってもらったところでどうにもならないことだし、目の前の市井の米国人はそもそも自分たちイラクの人間の生活とは関係の無い人々なのだから、そこで「I’m sorry」と言われても当惑するだけなのだという。その当惑困惑を表現したのがこの作品なのである。確かに深い。戦争とはなにか、国民とは何者か、というようなことを雄弁に問うている。観る者に深く物事を考えさせるという点では確かに「芸術」なのかもしれない。
その後、サントリー美術館で開催中の紅型展を眺めて、なんともほっとした気分になった。もちろん、沖縄なのに雪にたわむ竹の画とか、沖縄には無い春夏秋冬の風物の絵柄といったものには、そうした絵柄の服を身にまとって、自分たちのステイタスを誇るいやらしさがある。「贅を尽くす」とか「豪華絢爛」というものの向こう側に透けて見えるグロテスクは、人間の虚栄心に拠るのかもしれない。しかし、使う人の生活を豊かにしようとの思いで作られたものが持つものと、誰かを糾弾しようと作られたものとは、同じ無機物であっても、なぜか同じ佇まいには感じられない。21_21の手仕事展に並んでいたものに至っては、妙に親近感を覚えた。結局、美しいというのは、人に緊張感を引き起こすのではなく、人の心を弛緩させるものなのではないかと思うのである。