虚構に対して現実、というのが一般的な認識ではないだろうか。現実というのはどれほど確たるものなのか、ろくに考えもせずに語られることが多いような気がする。タブッキの作品には主人公が誰かを探して八方手を尽くすが、結局探していたのは自分自身だった、というものがある。『インド夜想曲』がそうだし、この本のなかで語られている『遠い水平線』もそれっぽい。そうした作品を読むとき、迷路の中を彷徨う不安な気分に陥るのだが、その不安感にデジャヴを覚える。おそらく、小説を読んでいるつもり、つまり、虚構だとわかっているつもりでいながら、そこに自分の日常に漂う不安の空気を感じ取るからではないだろうか。果たして、自分が今「現実」だと認識していることがどれほど確かなことなのだろうか。そもそも現実とは確かなものなのだろうか。
蛇足を承知で書くのだが、『古今和歌集』にこんな歌がある。
君や来し 我や行きけむ 思ほえず 夢か現か 寝てかさめてか
これには以下のような説明書きが付く。
業平朝臣の伊勢国にまかりたりける時、斎宮なりける人に、いとみそかにあひて、またのあしたに、人やるすべなくて、思ひをりけるあひだに、女のもとよりおこせたりける
そしてこの歌には在原業平からの返歌がある。
かきくらす心の闇にまどひにき夢うつつとは世人定めよ
(以上『新版 古今和歌集』角川ソフィア文庫 296頁)
そういう夢うつつ、虚構のような現実、現実のような虚構もあるものらしい。そんな世界なら夢でもうつつでも、現実でも虚構でもどうでもよくなってしまう。
他人まかせの自伝――あとづけの詩学 | |
アントニオ・タブッキ | |
岩波書店 |