昨日の昼頃、菅野さんから電話をいただいた。かねてお願いしてあったカバンが出来上がったという。ちょうど今日、都内のホテルでポルシェのイベントがあり、そこにブースを設けるので、そこで受け渡しということになった。午後7時頃に会場にお邪魔するということになっていたが、帰り際になってばたばたとしてしまい、職場を出たのが午後7時10分前になってしまった。
近頃、高級車が売れているらしい。「The Porsche Summer Summit」と銘打たれたそのイベントは、終了時間30分前でも熱気に包まれていた。会場入口で菅野さんに電話をしたのだが、これでは着信に気づかないだろうと思ったが、まさしくその通りだった。受付で取り次ぎをお願いして、会場に入れてもらい自社ブース前で接客中だったご本人にお目にかかることができた。いよいよ憧れのカバンとの対面だが、そこで開梱するには混み合い過ぎていたので、カバンの中に入れて使うインナーケースだけ開けてみる。カバンのほうは赤く染めた牝牛の革をはってあるのだが、インナーケースのほうはスクラッチ加工で、水面のようになっていて、見る角度によって表情が変わる。そのインナーの表面に私の名前が刻まれていて、その下に何やらフランス語のようなラテン系の言語でメッセージが彫ってある。何が彫ってあるのか教えて頂けなかったのだが、後でルーペで拡大して解読してみる楽しみができた。
自分が生活のなかで使うものを自分で作る、自分で作れないものでも自分が知っている人が作る、せめて誰が作ったものなのか知ったうえでものを買う、というのは人間の長い歴史のなかでは当然のことであったのではなかろうか。だから、そこにはわざわざ「保証」とか製造物責任にまつわるあれこれの法規を設けなくとも、生活の安全は守られていただろうし、なによりもモノを媒介にした人と人との結びつきがあったのではなかろうか。それが市場原理とやらが神の如くに幅をきかせるようになって、「経済合理性」という不合理に人々が走った結果、モノは消費の対象でしかなくなり、人は孤独に陥るようになった、というのが現状なのではないか。市場原理のおかげで確かに安価で安定した品質のものを好きなだけ手にすることができるようになった。しかし、そこに流通しているのは作り手と使い手が没交渉で価格情報に取引に必要な情報が全て集約される「商品」だけになってしまった。商品は消費されることで商品としての存在意義を持つ。消費されなければ不良在庫というコストでしかなくなってしまう。かといって、消費されれば、それは即ち中古品となり商品価値は減価する。完成して市場に流通し、売買された瞬間に価値が極大化し、その直後に急激に減価する、というのが圧倒的に多くのモノの運命だ。そういうものを使いながら生活している圧倒的に多くの人々もまた、似たような状況に置かれているのではないか。日々自転車操業のように消費を継続することによって生活が成り立っているとしたら、消費しているのは一体何なのか。自分の手に入った瞬間に消えてなくなるようなものを手にするためにあくせくする人生とは一体何なのか。
カバンの受け渡しかたがた、その場に居合わせた「妙乃燻上」の津川さん、浦安のカフェの店長のIさん、インダストリアルデザイナーのIさんと1時間半ほど歓談して失礼させていただいた。午後8時終了とのことだったが、午後9時になってもけっこう大勢の人が会場にいた。菅野さんを拝見していつも思うのだが、自分の分身のようなものを創り続け、それを世に出しつづけることで、そこに人が集うというのが、人の社会のあるべき姿なのではないだろうか。私などのように、創造活動とは無縁にひたすら労働力商品として己の存在を切り売りし続けるというのも滅びの美学として美しい生き方かもしれない。しかし、そんなふうで果たして楽しいだろうか。自問自答するまでもないことだろう。
恵比寿に来たついでに風花に寄る。そこでカバンの入った箱を開け、真っ赤な革張りのジュラルミンケースと対面。圧倒的な存在感だ。その存在感に負けない生活を創り上げないといけない。このケースが今こうして私の手元にあるのは、勿論、菅野さんとのご縁があるわけだが、やはり昨年暮れに失業したことが大きく影響している。あのことをきっかけにいろいろなことを考えた。あれを機に自分の生活を仕切り直し、今このカバンを手にして、ようやく仕切り直した生活が始まろうとしているかのような気分である。