万国時事周覧

世界中で起こっている様々な出来事について、政治学および統治学を研究する学者の視点から、寸評を書いています。

本当は無慈悲な自由貿易理論ー”余地を残す”発想が必要では?

2017年01月14日 14時07分22秒 | 国際経済
 古典的な自由貿易理論は、貿易関係にある二つの国が、相互に相対的に低いコストで生産できる分野に生産を特化すれば、自然に両国はウィン・ウィン関係に至ると説いています。比較生産費説は、予定調和説、あるいは、自然調和説の一つですが、良く考えてみますと、この理論、かなり無慈悲なのです。

 自由貿易におけるウィン・ウィン関係は、確かに、双方の優位産業だけを見れば、まさにその通りとなります。しかしながら、劣位産業を見れば、これらの産業は、双方ともに”淘汰”が運命づけられています。”淘汰”とは、劣位産業が根こそぎに壊滅することを意味しますので、これらの産業に従事している人々は失業者となり、生産地もまた廃墟と化すことになるのです。自由貿易主義を全面的に受け入れることは、双方の国が、淘汰をも受け入れることに他ならないのです。

 自由貿易主義を総論では支持しつつも、通商交渉において各国が火花を散らすのは、自国内に淘汰産業を見殺しにできないからです。日本国であれば、特に農産物部門が、アメリカであれば、製造業全般が淘汰産業となるかもしれません。第二次世界大戦後に自由貿易体制を構築しつつも、アメリカの保護主義は、トランプ政権の誕生に始まるのではなく、既に70年代後半頃において表面化しています。その後、多国間の自由貿易協定であるNAFTAの成立によって保護主義的な色彩が一旦薄らぎましたが、多国間型の自由貿易においても”淘汰問題”に直面すると共に、グローバル化に伴う企業の移転問題や中国製品の氾濫も加わり、アメリカでは、自由貿易主義に対する懐疑が強まる結果を招いていると言えるかもしれません。

 結局、自由貿易における不均衡問題は政治的に解決するしかなく、80年代の日本国は、自国に不利な為替政策の受け入れ、輸出の自主規制、現地生産、内需拡大によって貿易摩擦を凌ぎました。自由貿易を越えて市場統合にまで歩を進めたEUにおいて、ドイツの”一人勝ち”を前にして、財政統合が求められるのも、不均衡問題の解決を、財政移転に求めているからに他なりません。そして、今日、トランプ次期大統領は、辣腕を発揮して企業への経営介入を強めと共に、あらゆる政策を総動員することで、貿易不均衡を是正しようとしているのです。

 自由貿易理論はグローバリズムの一角をなしていますが、これらの理論が批判を浴びるのは、有無も言わさずに淘汰を肯定するその”無慈悲”さにあります。となりますと、グローバリズムの修正を考えるに際しては、全ての諸国に対する”思いやり”、あるいは、生存の尊重をルール化する必要があるのかもしれません。例えば、その一つは、優位側による根こそぎの淘汰を制御し、各国に一定の”余地を残す”というルールです(ただし、WTOでの協定改定が必要かもしれない…)。言い換えますと、外国企業や外国製品による100%の市場占有を許さず、ある程度のシェアを国内企業向けに確保するというものです。このルールですと、途上国にも、外資を導入しつつも自国企業に発展の余地が残りますし、先進国にあっても、完全淘汰による失業問題を回避することができます。そして、二国間、あるいは、多国間の通商交渉であれば、強引に関税ゼロの自由化を原則として推し進めるのではなく、どの分野でどの程度の”余地を残す”のか、という問題をめぐる交渉となります。

 こうした保護型のルールは競争法においては一部実現していますが、一定の余地が残されるとなれば、弱肉強食の世界と化しつつあるグローバリズムも、より国内経済と調和した姿に変貌することができるのではないかと思うのです。

 よろしければ、クリックをお願い申し上げます。

にほんブログ村 政治ブログへにほんブログ村

 

 

 

 

 
コメント (6)
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする