万国時事周覧

世界中で起こっている様々な出来事について、政治学および統治学を研究する学者の視点から、寸評を書いています。

日中政治文書は悪しき慣習-属国化への道?

2019年11月03日 11時22分40秒 | 国際政治
 来春に予定されている中国の習近平国家主席の日本国への公式訪問に際して、「第5の文書」の作成が日中両政府間で検討されているそうです。第5という数字が示すように、日中間にはこれまでに、両国間の協力関係の基本方針を定めた文章が公表されてきました。こうした国家主席の国賓としての訪日ごとの文書作成は、凡そ慣例化された感がありますが、こうした悪しき慣習は続けるべきではないように思うのです。

その理由は、第一に、国家の首脳の公式訪問の度に特別の文書を作成するのは、中国の国家主席に限定された特別の‘待遇’です。同盟国であるアメリカ大統領の訪日時に際してさえ、相当に重要な案件がない限り、日米首脳による共同声明が発表されることはあっても、以後の政策を縛るような政治的な協力文書を毎回作成することはありません。70年代の国交樹立に際しの日中共同声明(1972年)、並びに、日中平和友好条約(1978年)については国際法上の手続きにいて要する公式な文書であったとしても、少なくともその後の二つの文書―日中共同宣言(1998年)と日中共同声明(2008)年―については作成するだけの正当な理由を見出すことは困難です。

第2の理由は、中国では伝統的に道徳や法は他者を縛るために存在すると考えらており、同国に合意の双務的遵守を期待できない点です。例えば、「第1の文章」である日中共同声明の6には、「…相互の関係において、全ての紛争を平和的手段により解決し、武力又は武力による威嚇に訴えないことを確認する」とありますが、今日、この合意は中国側によって一方的に破棄されています。一事が万事であり、政治文書が積み重なるほど、中国側による日本国側に対する一方的な縛りが強まることが予測されます。香港の抗議活動に対しても、北京政府は新法の制定で抑え込もうとしていますが、中国が積極的に法や文書を用いようとする時には警戒すべきです。それは、支配のための手段なのですから。

第3に指摘すべきは、今般の「第5の文書」の作成に際し、日本国政府が参考にしようとしているのが、宮沢喜一政権時代の92年に当時のブッシュ大統領との間で合意された「グローバル・パートナーシップ」の概念である点です。上述したように、アメリカ大統領の訪日に際しては必ずしも政治文書が作成されるわけではありませんが、冷戦終焉直後に当たる92年当時、日米両国は日米同盟を再定義する必要がありました。日米両国の共通の敵であり‘仮想敵国’であったソ連邦の消滅への対応であったわけですが、この文書がモデルであるとしますと、それは、あまりにも奇妙と言わざるを得ません。何故ならば、今日が歴史的な転換点であり、安全保障上の重要な政治文書を作成するならば、その相手国は同盟国であるアメリカのはずあるからです。軍拡著しく、今日、日米両国にとりまして共通の脅威となった中国を‘仮想敵国’とするならばお話は分かります。ところが、こともあろうことに、その中国との間に「グローバル・パートナーシップ」を結ぼうと言うのですから、正気の沙汰とは思えないのです。

「第4の文書」までの政治文書に携わった田中角栄、福田赳夫、小渕恵三、並びに、福田康夫の何れの政治家も政界屈指の親中派として知られております(福田親子と小渕氏は群馬県出身という共通点がある…)。仮に「第5の文書」の文中に‘新時代’という言葉が登場するとしますと、それは、日本国の政界全体が親中派に転じてしまったことを意味するのでしょうか。ネット上では朝鮮半島の南北両国の再冊封国化が揶揄されてきましたが、足元をしっかりと見ていませんと、日本国の方が先に中国の属国とされてしまう可能性も否定はできません。そして、属国化への道を敷くような悪しき慣習は踏襲すべきではないと思うのです。

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コメント (4)
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