今回は等々力渓谷からチョッと離れます。等々力渓谷の途中に長~い階段があり、そこを上って2~300m行くと玉川野毛町公園があります。目的はその中にある国重要文化財「野毛大塚古墳」です。この古墳は約1600年くらい前(古墳時代)に南武蔵(現在の東京、川崎、横浜北部)を収めていた豪族?首長?の墓だと言われています。大きさや出土品から見て、かなりの権力者だったと思われます。世田谷区、大田区あたりは古墳が沢山あり、まだ50基ほど残っているそうで荏原台古墳群と呼ばれています。以前はもっとあったそうですが現在では取り壊され、住宅地になっています。実はこの事がちょっと気になる話を見つけました。後ほど紹介します。
以前はこの周りに埴輪が置かれ、もっと雰囲気があったそうですが、今では何もなく残念な様子です。この日はコロナ過と日曜日と言うのもあり、お弁当を持った家族が所狭しと来ていました。かなりの巨木が沢山残されていて、遥か昔このような木が沢山生えていた森があり、その中を等々力渓谷が流れていたんですね。そんな事を想像すると楽しくなると同時に、今は無き森を失った事に悲しく思ってしまいます。
横には説明の看板と碑があります。看板と同じような説明が世田谷区のサイトにあったのでリンクしておきます。https://www.city.setagaya.lg.jp/mokuji/bunka/001/004/d00128557.html
古墳の上にあがる事が出来ます。上には古墳の中からどのような出土品が見つかったの図面と、皆さんが見ているのは実際にどのような配置で埋まっていたか、あった場所の真上に実物大?で書かれているので、それを見ているんです。
「邪馬台国大研究」さんのサイトに埴輪が並べられていた頃の画像や出土品の画像も掲載されているので興味がある方はご覧ください。他の古墳や遺跡の事も沢山書かれていてとても面白いサイトです。なお、リンクの許可を取るにも連絡先が書いてなかったので、無断でリンクを貼る事をお許しください。http://inoues.net/ruins/noge_ohtsuka.html
★幾つかのサイトに書かれていた「野毛大塚古墳の呪い」の話
明治30年(1897年)に、この大塚から石棺が見つかりました。その時、下野毛の青年が奇妙な死に方をし、たたりにあったと言う噂が広がりました。また、一人、青年が血を吐いて死に、もう一人は狂ってしまいました。死んだ青年の弔いに立ち会った者までが、頭痛を訴え、寝込むありさまです。
村の世話役で名主の新兵衛は、これはただごとではないぞと、二人の青年について家族に心当たりを聞いてみましたが、これと言う答えがありません。次の朝、新兵衛は思い当たることがあって、大塚へ行ってみると、狂った青年がそこで汚れた手を合わせて何かさかんに唱えていました。近づいてみると、塚から血のような朱がべっとりににじんでいるではありませんか!「ばちあたりめ、塚を掘ったな!」と新兵衛が言うと、青年は正気に戻って「おらだけでない、死んだ平吉も掘ったんだ」と答えました。「盗んだものをもとに戻したのに赤い血が吹き出て、土をかけてもかけても、止まらない。だからお祈りしていたんだ」と。
新兵衛が塚の穴を土で固めると、赤い血は止りました。ふと見ると、今まで横にいた青年がいません。新兵衛が家に帰ると、青年の母親が来て、息子が血を吐いて死んだと知らせました。
騒ぎ収まった頃、村人たちは鎮魂のため古墳の頂に吾妻神社を祀りました。
なかなか怖い話ですね(>_<)。
さて、またこの長い階段を下りて等々力渓谷に戻りましょう(笑)。
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