たにしのアブク 風綴り

87歳になります。独り徘徊と追慕の日々は永く切ない。

「隠し剣・秘剣の遣い手」は切ない

2018-05-20 10:48:21 | 本・読書

大活字本で読む時代小説シリーズ「藤沢周平」
「隠し剣孤影抄」<上下>を読み終えました。

藤沢流「隠し剣奥儀」の世界を堪能しました。
遣い手は、何故か切なく、気分はほろ苦い。
武士たる者、正々堂々と戦う正当な剣法ではなく、
師匠から一人だけ、密かに伝えらている護身剣。

秘剣・隠し剣を習得した8人の武士が登場します。
抜き差しならない状況に追い詰められた果てに、
視られてはならない、一回限りの秘剣が一閃します。



8編の短編が収められています。
「邪剣竜尾返し」「臆病剣松風」「暗殺剣虎ノ眼」
「必死剣鳥刺し」「隠し剣鬼ノ爪」「女人剣さざ波」
「悲運剣芦刈り」「宿命剣鬼走り」



必ずしも藩内で知られている剣士ではありません。
評判の臆病者だったり、目立たない下級の家系だったり、
秘剣の遣い手だという噂はあっても、
誰もそれを遣ったところは見たものいない。

同輩との確執や対立など、いろいろないきさつの末、
真剣で立ち向かわざるを得なくなり、隠し剣が勝敗を決する。
必ずしもフェアな剣技ではなく、ひっそりと始末される。
遣った本人にとっても後味は苦いものだった。



緊迫感の凝縮した短編小説ですが、
各篇とも生と死の間に女の影が介在します。
「隠し剣」が一閃し死命を決するまでに、
「武家の女」静謐さと激情の「官能」が織り込まれて、
愛憎劇ともなっています。



浅見俊之助は美人の家系だということで結婚した妻の邦江が、
期待外れで好きになれず、疎んでいたが、
俊之助が立ち会わざるを得なくなった相手は本堂派の遠山左門。
俊之助が勝てる敵ではなかった。
それを知った妻は「隠し剣」の習得者だった。
妻に救われた俊之助は、邦江への愛しさを一気に募らす。
「女人剣さざ波」がいい味でした。

臆病武士の「秘剣」は誠と正義で勝つ

2018-05-12 16:11:40 | 本・読書

とても清しい物語に出会いました。
文庫本が読めなくなって、大活字で読む時代小説。
大活字本を図書館から借り出して読んでいます。
今回は葉室麟さんの本が目に付いたので借りました。

葉室さんは昨年の12月に亡くなった時代小説作家です。
直木賞受賞作品で、
映画でも見ましたが「蜩ノ記」が代表作です。



今回手に取った大活字の作品は「川あかり」。
明快な筋立てとストーリーを大活字で追っていくと、
まるで絵本を読でいるような感覚になります。

伊東七十郎は18歳。
藩で一番の臆病者と言われている。
剣術はまるでダメ、
人を切るなんて手が震えてできるものでない。

しかし誰にもまねのできない護身術があった。
唯一の能力は愚直なまでの真面目な性格でした。
正義を貫くためには卑怯なことは一切しない。



そんな七十郎に藩内で「策謀を巡らす御家老」から、
江戸表からお国入りする「政敵」
甘利典膳の刺客の密命を受ける。

討つべく川の渡し場に来たが、雨続きで増水し川止め。
滞留者を泊める木賃宿の2階の同宿者と奇妙な縁で知り合う。

左々豪右衛門六尺褌にぼろぼろ袢纏の牢人。
一日中お経をつぶやく徳元和尚。
サルを飼っている旅回りの芸人弥之助。
三味線を抱えた鳥追い女のお若。
やくざ風の遊び人の千吉。

みすぼらしく痩せているが、どこか品位を感じさせる老爺。
付き添って看病する五郎坊と姉のおさと。



七十郎の真面目で正直な振る舞いから、彼らに、
密命を受けた刺客であることが知られてしまう。

川止めが明けて「討つべく典膳」が、川を渡ってくるのが見えた。
七十郎は身の竦む思いで「刺客であることを」名乗った。
相手はせせら笑って白刃を振りかぶった……



死にも増して貫く七十郎の真っ直ぐな姿。
木賃宿で知りあった人々が周りに駆け付けた。
権力者や悪徳商人、お上の仕打ちに耐えている、
郷人たちの友情の力が「典膳」を取り巻いた。

「正義は勝つ」
世の中は、そうでなくてはならない。
策謀渦巻く藩政の外で「清しい人情」が生きている。
人間「純で誠こそ」が最大の武器で勇者になる。

永田町と霞が関に忘れられている世界を見た。

安西篤子著「不義にあらず」―武家の体面は死で償われた

2018-01-30 10:44:03 | 本・読書

大活字本で池波正太郎作品を読んでいる。
鬼平犯科帳を読み終えて今は、剣客商売を読んでいる。
以前にも何回か、書いていることですが、
高齢者には、大活字本はストレスなく読めていいです。
とくに時代小説は、大活字の雰囲気に合う気がします。



図書館に行ったついでに、1巻が3分冊になっている、
池波作品のほかに、2分冊の時代小説を借りてきます。
今回、アップする「不義にあらず」もその1冊です。



安西篤子著「不義にあらず」埼玉福祉会 (2002年10月刊)。
底本は講談社刊「不義にあらず」 1990年、のち文庫。
江戸時代の武家社会の不条理に命を絶つ妻女の悲劇を描く。
花と植物の名前が付く9篇の短編からなっています。


時代小説にもいろいろカテゴリーがあります。
武家、市井人、捕物、伝奇、剣豪、股旅など。
本書「不義にあらず」は最後は死につながる。
武家の家督相続、家柄、家格、体面、面目がからんで、
死をもって尊しとする武家の暮らしが、非情に描かれている。


黄水仙|
家禄200石、御納戸役を務める中野平右衛門。
家には父半兵衛が遺していった、若い継母の澄が居た。
長年一つ屋根の下で暮らす二人は、男女の間になっていた。
その平右衛門は、40歳を超してから娶った、
若くてかわいい妻の春を心から愛していた。

ある日、継母と納屋で睦合う平右衛門を春が見てしまう。
刀架の脇には黄水仙が生けてあった。
惨劇は起こるべきして起きた。
中野家にとって、黄水仙は忌花だった
後家となった義母が妾で、妻も同居する武家の奥向き、
それほど珍しいことではなかったようです。


山吹|
お豊は、庭の山吹のそばに佇みもの思いにふけっていた。
お豊は、婚家の今里家から突然、離別され生家に戻っていた。
今里作左衛門に嫁して8年経って、子どもには恵まれなかった。
その作左衛門から婚家に戻るよう手紙が来た。
戻った夜、呼び戻したわけを聞いた。
「お前の不始末が世間に知れたからだ」という。

豊には婚家で起きた、不可抗力ともいえる不始末があった。
主の留守に若党の佐太郎に襲われ、身体が応えてしまった。
成敗するために呼んだといって、庭先には佐太郎の惨死体がった。
豊の背後で夫が大刀を振り上げた。
左衛門は若党の佐太郎が乱心して妻を襲ったとして世間体を繕った。


夏茱萸|
家禄40石の仲田三十郎には3歳になる娘えんが居る。
三十郎は父と継母の看病で蓄財を使い果たしていた。
金策のため、妻のふみを実家に行かせたが、戻っていなかった。
門の脇の夏グミの実が真っ赤に色づいている。

妻に実家への金策を何度も命じたが、首尾は叶わなかった。
三十郎は「能無し女と妻をなじった」。その夜、悲劇が起きた。
血にまみれた妻を抱き起こしこしてみたが、
どうすることもできなかった。
物言わぬ娘の口にグミの実を押し込んで……


百日紅|
竹内平馬は城下がりの午後、組頭の村尾市右衛門に呼び止められた。
平馬は商家出の小間使いの、きぬに溺れていた。
武家は家格の違う家同士の縁組は許されない。
まして、農家や商家とは縁組は許されない。

その平馬に北上五郎兵衛の娘の縁談を持ち込まれた。
きぬに暇を出さざるを得ない仕儀になってくる。
きぬはいっそ、殺してくれと哀願するのだった。
平馬は庭の百日紅の小枝をきぬの髪に差して、
行方も知れず立ち去っていた。


曼珠沙華|
祈祷師の卦で、巳年の女がたたっていると言われ、
孫右衛門の妾でもあった、女中のきのは暇を出される。
謂れのないことだと、きのは訴えるが、
荒木家では老親、長男の嫁が相次いで亡くなった。

家督を巡って兄弟も果し合いの末、死んでしまう。
何年かの後、きのの生家を訪ねた孫右衛門は、
そこに家があったという空き地に、真っ赤な曼殊沙華が。、
数本風に揺れているのを見るのだった。


秋海棠|
八重が嫁いだ今西家と生家の野沢家は先々代から昵懇の間柄であった。
八重と平三郎は惹かれ合う仲だった。祝言を待ち望んでいたが、
平三郎の長兄儀太夫の妻が離縁になり、
その後釜に八重は嫁がされてしまった。

平三郎は義弟となた。二人は夫儀太夫の目を盗む仲になってしまった。
「不義の子を宿した」八重を残して、
秋海棠の花が紅色をにじみ始めた朝、
死ぬときは一緒に、の約束を反故にして、
平三郎は兄にわび状を残して蓄電してしまう。


紫苑|
お加代は、速水平右衛門に嫁いで3年。子が授からないでいた。
夫の平右衛門は加代が嫁ぐ前から、上女中を妾にしていた。
父松本善兵衛、母きんは、娘の加代に離縁を強く迫る。
上女中は二人目の子どもができた。

お加代には優しい平右衛門が好きで、
平右衛門もまたお加代を愛しているといいながら、
妾との同居を続けている。加代が実家から帰ると、
平右衛門と妾の上女中が心中していた。
風に揺らぐ紫苑の中に加代は立ち尽くすのだった。


いろは紅葉|
三百石大御番組頭の塩川市之丞の妹の仙。
千代田城大奥に奉公に上がった。
将軍の目にとまり、お手がついて御中臈になる。
懐妊したが流産してしまった。13年後に将軍が死去する。

比丘尼屋敷に幽閉同様の暮らしを強いられることになった仙に、
ある噂がたった。出入りの若い大工と密通したという。
18年ぶりの生家に帰宅した仙は非情な城中の暮らしを訴え、
若い大工との真実を兄に吐露するのだった。
「人をこれほど弄んでよいものか」。風もないのに、
紅葉が一葉、はらりと、仙の髪に簪のようにとまった。


山茶花|
夫婦仲は良くなかったが、船越小源太には妻の菊が居た。
流産をした菊が去ったあと、
妾の奉公人やすを妻にしようとする小源太と、
口やかましい隠居の伝右衛門が面目を立てに、対立していた。
ある日、口論の果て小源太は自害してしまう。
自分の女より面目を立てることは死に勝るものであった。


たにしの爺、武家に生まれなくてよかった。――
「家」の体面や家格が死よりも優先する不条理。
救いのない「血飛沫の時代小説」短編集でした。
この作品が数多ある安西篤子作品の中で、
どのように位置付けられるのかは、全く分かりません。


安西篤子(あんざい あつこ)1927年神戸市生まれ。
1964年『張少子の話』で第52回直木賞
1993年『黒鳥』で第32回女流文学賞。1994年「神奈川文化賞」


最後までお読みくださった皆さん、
お疲れ様でした。爺も疲れました。一ヵ月費やしました
添付の写真は題名の花とは合致していません。

男と女の間には、江戸市井人の孤独、しみじみと

2017-11-12 10:02:34 | 本・読書

北原亜以子さんを読む2冊目「その夜の雪」
「恋忘れ草」に続いて大活字本です。
七編からなる江戸情話の物語集です。

「うさぎ」錦絵の摺師の名人峯吉、女房のおせつは、
駆落ちして大阪に行っていたが、江戸に帰ってきている。
娘のおひでに接近して、すっか母に懐いてしまい、入りびたりになっている。
男手ひとつで娘を育ててきた峯吉はやり切れない思いでいる。
ある日、街で遊んでいた少女を連れ去ろうとしていた女、
お俊と関りを持つようになった。二人は寂しさを埋め合う関係に…。

「その夜の雪」市中見回り同心・森口慶次郎は人情同心で知られている。
娘の三千代が手篭めにされ帰宅した夜、自ら命を絶った。
三千代は遺書を残していた。
切々と綴る娘の遺書を読み返す度に血が逆流する思いに駆られた。
仏の同心、森口慶次郎が、復讐に燃える鬼の同心になった。
にっくき容疑者を追い詰めた先には心の修羅が……。



「吹きだまり」日雇いの作蔵、食う物も食わずに貯めた2両の金があった。
その金は小料理湯屋で楽しみのために貯めていたものだったが…。
行きづりに知りあった女にほだされて、新たな喜びに浸るのだった。

「橋を渡って」深川佐賀町の干鰯問屋の嫁おりきは、夫の浮気に頭を悩ましていた…。
夫・佐十郎は外に女がいるようで、おりきに関心がない。
おりきに関心がない夫が恨めしい。それなら私だってと、
富岡八幡宮への参詣の帰りに見た「雇人紹介所」の看板が目に浮かんだ。

「夜鷹蕎麦十六文」初代志ん生の弟子の噺家かん生は粋と野暮が口癖だった…。
赤貧洗う貧乏暮らし。「野暮はで嫌い」が口癖。
野暮の見本のよう女房のおちかが恥ずかしくてしょうがない。
おちかは野暮のかん生に惚れていて尊敬していた。
それを知ってしまったかん生。「夜鷹蕎麦」の味の仲が蘇ってきた。

「侘助」下谷山崎町の棟割長屋に住む杢助は無銭飲食のプロを自認していた。
今日も、しおらしくめし屋に入った。
昔居た呉服問屋の女中・おげんにあった。
おげん、は杢助の貯めていた小銭を失敬しようとしたが…。

「束の間の話」おしま、は息子の亀松の嫁に追い出され、
浅草阿部川町に一人暮らしをしていた…。
熱発で意識をなくして養生していたとき、見知らぬ男に介抱されていた。
その初老の男も倅を探しているという。
粥を作ってくれた男と指が触れあい、何かが変わっていくように思えたが…。
各篇とも、男と女の行き詰まりの果てに、どうしようもなく…。
切なさを温め合う、江戸庶民の姿をしみじみと綴る掌編短篇集。
物語に出てくる人物はみな、横丁や裏店に住んでいる人たち。
北原さんの文章の冴えで、人物が鮮やかに読み手に伝わってきます。
時代小説というより「物語の文学」だといえるでしょう。
他の北原亜以子さんの作品も読みたくなった爺です。
江戸時代の男女の仲って、情が奥深いですな。

雨降り続きの秋は「読書の秋」でもあります

2017-10-29 15:40:28 | 本・読書

本に恋する季節です!
2017・第71回読書週間 10月27日~11月9日



江戸後期の市井人の暮らしの心の機微を「やさしさ」で描く、
北原亞以子さんの本を2冊読みました。
『恋忘れ草』(文藝春秋1993年)、『その夜の雪』(新潮社1994年)
読んだのはいずれも大型活字本になっているものです。



『恋忘れ草』は6篇の小編連作シリーズです。
恋風
萩乃・父の帯刀の死後、跡を継いで手跡指南をしている。
商店の子どもたちに読み書きソロバンを教える塾を開いている。
ある日、傘問屋・常盤屋の手代の栄次郎が弟子入りを乞うてきた。
萩乃は気が進まなかったが、あまりに熱心なので期間限定で許す。

萩乃の父・山中帯刀は敵討ちの旅人だったが、
武士を捨て手習いの師匠になった過去に秘密があった。
その秘密をかぎつけた悪党の岡っ引きの五郎次が難癖をつけて、
50両の金銭を要求してきた。金策に奔走したがどうにもならなかった。
「お困りのようですが、私に話してください」
そこには、かつて弟子だった栄次郎が立っていた。

男の八分
香奈江・長谷川理香の名で筆耕をしている。
戯作者の草稿を、板下用に書き直す仕事で身を立てている。
ある日、かつて夫だった稜之助が訪ねてきた。離縁されて4年たっている。
迫られて争っているとき、御家人崩れの戯作者・井口東夷が訪ねてきた。

その東夷の合巻本「草枕旅路夢」の草稿が届けられた。
作品にはいろいろ悶着もあって、東夷の怒りを買ってしまう。
香奈江は涙をこぼして……。東夷が何か言ったようだった。
香奈江には「すまない」と言ったように思えた。

後姿
おえん・娘浄瑠璃語りの七之助と名乗り前座を務めている。
一座のしんかたり(真打)の小扇より人気があると自認していた。
物心とも紅白粉問屋の淡路屋長右衛門の庇護を受けていたが…。
しんかたりへの野心を秘めていた。野心は成就したが、
弟子が武士をやめた男と所帯を持って出ていった。

誰もいなくなった居遇で、どっと寂しさが満ちてきた。
そんな心の空白を埋めるのは……

恋知らず
お紺・小間物屋の三々屋の娘で簪の意匠を手伝っていた。
店は裕福な金持ちを相手にする高級品が評判だったが、
お紺は手ごろな値段で多くの娘たちの髪飾りを目指している。
デザインを考えて歩いていたら、男にぶつかった。
幼馴染で醤油問屋の三男・秀三郎だった。

簪のデザインの相談にかこつけて出合茶屋で会う仲になっていた。
お紺の簪がさっぱり売れなくなった、
お紺の簪の何がいけなかったのだろう。

恋忘れ草
おいち・役者絵・錦絵の師匠から歌川国芳から、
歌川芳花㋨名をもらっていた。女の画工として評価を得ていた。
本所横網町の家に一人で住んでいた。
寂しさを絵を描くことで才能の発揮に磨きをかけていた。
女房も子どももいるが訳アリの彫師の才次郎と男女の仲になっている。

疎遠になった才次郎の家近くをうろついていると、
女房に気付かれ家に招じ入れられてしまう。
そこには才次郎の家庭があった。帰り道、おいちは声にした。
「ばかやろう。子供のおしめを替えた手で女を抱くなってんだ」

萌えいずる時
お梶・料理屋「もえぎ」の女将。
文政13年、師走に天保と改元された。
深刻な飢饉が続き、凶作で田舎は失業に溢れていた。
食料品はみな値上がりしていたが、「もえぎ」はお梶の才覚で繁盛していた。
仲居のおはつの家族が夜逃げ同様に転げ込んできた。

お梶はできる範囲で面倒を見ていたが…
雑用に雇ったおはつの義姉おげんが来てから、
店は板場や仲居仲間に不協和音が生じていた。
ある日「もえぎ」が打ちこわしに会い、店がめちゃめちゃにされてしまう。



本書「恋忘れ草」は6篇の連作物語で、
それぞれの篇は女性が主人公で登場します。
女主人公の仕事、恋、男など、生き様が書き込まれている。

この作品で北原亜以子さんは第109回(平成5年上期)の直木賞を受賞している。
解説によると北原さんは「江戸のキャリアウーマンを書いた」と話したという。

作品の時代背景は江戸後期の文政から天保のころで、
武家社会がゆるみ、商人の力が社会を動かすようになり始めていた。
一方、江戸文化が隆盛が極めていた。
この時代を象徴する仕事に生きた女性を主人公に仕立てた本です。
「たにしの爺」読後のつぶやきです。
作者は各篇の女主人公を、いききと描いています。
しかし、訳アリになる男や過去の男が関わり、
良くも悪くも仕事のエネルギーになっている。

現代風ぬ言えば、女性が「いい仕事」をするには、
男のスパイスが必須要素なのだともいえるのかなー。

女性国会議員を見るとそんな気もしますね。
例えば「幼稚園落ちた」で名を上げた前民進党議員。
有能弁護士との交際が週刊誌ネタになったが、
今回の総選挙では無所属で当選しました。

いい仕事をするには、いい異性の存在が必要??
キャリアウーマンが見たら怒り心頭でしょうな。

北原亜以子さん、主な受賞歴
(1969年)第一回新潮新人賞、小説現代新人賞佳作、
(1989年)第十七回泉鏡花文学賞、(1993年)第百九回直木三十五賞、
(1997年)第三十六回女流文学賞、(2005年)第三十九回吉川英治文学賞

大江戸町内取締り処「自身番」を取り巻く暮らし

2017-10-14 12:26:10 | 本・読書

藤沢修平「本所しぐれ町物語」
大活字シリーズ2004年11月20に発行
低本、新潮文庫、社会福祉法人・埼玉福祉会

久しぶりの更新になりました。
いろいろ溜まっていましたが面倒になったのでボツにしました。
言い古されたコピーですが「読書の秋」ですね。

8月の終わりに「爺の夏休み読書感想文」で予告した本から、
藤沢周平「本所しぐれ町物語」の読書メモを整理しました。
例によって大活字本ですから、
初版発行からは何年も過ぎてから知った本です。



舞台は江戸の下町「本所しぐれ町」の自身番の目を通して、
「表店・裏店」の主や奉公人の日常を物語に仕立てたものです。

「自身番」とは町内をまとめる役所・番屋です。
今でいえば市役所の出張所みたいものでしょう。
大家の清兵衛と番人の善六、書記係の万平が役所方です。

雇い主は、名主の市村正三郎で「丸藤」の主でもある。
しぐれ町と隣り町にまたがる広い地所と、
表店、裏店あわせて十軒あまりの家作を持つ地主。
本業は神田鍛冶町にある「藍玉問屋」を経営しています。

物語は12編の連作短編で構成されています。
鼬の道|猫|朧夜|ふたたび猫|日盛り|秋|約束|春の雲|
みたび猫|乳房|おしまいの猫|秋色しぐれ町|

猫が4篇に登場しています。
二丁目の小間物屋「紅屋」の息子栄之助は親父さんから、
店の経営を任せられ、おりつを女房にしていますが、
どうも商売に身が入りません。
愛想をつかして、おりつは実家に帰ってしまう。
迎えに行ったが会わしてももらえず帰る羽目になる。



帰り道、一匹の猫に関わってしまう。
根付師の妾の、おもんと浮気をして、怖いけど、
色香にひかれて、引きずっている。
猫はおもんの飼い猫で栄之助に懐いてしまう。

各篇に登場するのは一丁目の角にある茶漬け茶屋「福助」。
女将のおりき、女中のおとき、など、女たちを巡って、
表店、裏店の主や奉公人の暮らしが、おかしさと哀歓に満ちて描かれれる。

なかでも、爺にとって身につまされたのは「秋」の篇でした。
油やの佐野屋政右衛門、女房おたかといびきのことで喧嘩になる。
面白くない、欠点をつつき合う、言い合いになる。

種油を買いに来た少女のおきちを見て、かすかに思い出す女の風貌があった。
子どもの頃のおふさ、を思い出した。一緒に遊んだ幼馴染で、
ぜひ夫婦になりたいと思いつめた女だった。
そう思っただけで、二人はそれぞれ違った道を歩んできた。

久ぶりに、おふさに会いたい思いにとりつかれるようになった。
福助のおりきに仲介を頼む。
今では未亡人になっていて、とても若く見えるという。

おふさと会い、酒を飲み肴も食べて一刻(2時間)近い時を過ごすが、
二人の間にある距離は縮まるどころか、広がる一方のような気分になってくる。
政右衛門の想いだけが空回りするだけで、おふさは想いで話には関心がない。

政右衛門は、おふさの顔を見た。
おふさの目尻には無数の小じわが出ていた。
政右衛門の知らない歳月とおふさの人生の顔をのぞかせていた。

結局は、女房との喧嘩しながらこのまま行くしかない。
そう思うとやりきれない気もしたが、
どこか気心の知れたほっとした思いがあるのも否めなかった。

何かこの件は最近、
爺が「くるめる想い」に50年ぶりに電話した顛末と似る想いがしました。
声を聴いただけでしたが、歳月の隔てる確かさを感じることは否めなかった。

吐息が冷える秋ですね。

大活字本で読む「夏休み読書感想文」

2017-08-29 11:20:27 | 本・読書

 本好きを自認してきた「たにしに爺」。
ここ1,2年、文庫本の活字が読み辛くなった。
くすんだ紙質に狭い行間の中に、小さい字が埋没して、
集中して読む気力が萎える。ストレスになってしまった。

 以来、爺の読書を支える主流は大型活字本になった。
絵本をめくるように、まったくストレスなく、
活字の塊りが脳内に染みて、中身が流れていく。
この辺のことは既に、池波正太郎さんの鬼平シリーズや、
剣客商売を読んだ記録を述べた際、触れてきました。

 大型活字本は図書館に行かないと、手にすることができません。
利用させていただいている図書館は市川にあって、
市外利用者の爺は借り出し制限が5冊になっています。



 ところが、この5冊という制限が、
たにしの爺には、思わぬ本との出会いになってきました。
池波さんのシリーズもの文庫本一冊分が、
大型活字本では3分冊になっています。



 他に2冊を選ばなくてななりません。
そこで2分冊になっている作品を物色します。
大型活字本が何千冊、何万冊もあるわけではありません。
もちろん新刊本もありません。



 そんな中に、かつて評判になった本とか、
定評のあった、知らなかった本があります。
手に取ることが無かった本と出会いました。
既に何冊か、このブログで記録しています。



 この夏休み心に染みる3冊の本と出会いました。
藤沢周平「本所しぐれ町物語」
北原亞以子「その夜の雪」
安西篤子「不義にあらず」

 いずれも江戸が舞台の短編連作小説です。
前2冊は商人など市井人の物語で、
もう一冊は家督・家に縛られた武家家族の悲劇です。

(この項続く)
 大型活字本で読んだ「夏休み読書感想文」。

大型活字本の「鬼平」全24巻を読み終えました

2017-07-12 09:43:46 | 本・読書

ノルマのない365日連休生活。緊張感もあまりなし。
自然公園に続く道野辺の道を徘徊する日々の「たにしの爺」です。



傘寿も間近に控えた日々を送る「好奇高齢者」を任じています。
追われるものがあると感じているのは、税金や社会公共費補充の捻出やりくり。
それと同居人の叱咤(激励?)くらいか。



ブリッジタイム(息抜き)も欲しくなります。
爺にとってのノン・ストレスの時間ですな。
この時間を満たしてくれるのは「鬼平」です。



あまりにもよく知られている池波正太郎さんの代表作。
大活字本の「鬼平犯科帳」全24巻を読み終えました。
現役時代、通勤電車の中で文庫版の活字を追って読みました。
今回は22ポイントの大活字・ゴシック体の本でした。



文春文庫版1冊分を3分冊に分けて編纂されています。
くっきりしたゴシック活字で行間も広く、
絵本をめくるような感覚で読めます。



読むというより、目を流していく感覚です。
池波さんの描く情景が映り過ぎていきます。
まったくストレスが感じられません。



たにしの爺、この「鬼平」を読んでいるときが至福のときでした。
あまりに早く読んでしまうので、ほとんど2度読みしました。



各巻とも緊迫感を醸すストーリーの中に、
ちりばめられたユーモアに満ちた人情味、
連絡に出入りする出会茶屋の女や盗賊の情婦など、
女の肢体、官能描写は感じさせるものがあります。



短く2、3行にすぎないですがエロスの世界ですね。
「おとこの秘図」、忍者モノや他の作品でも同じです。



ところで「鬼平最終巻」は作者の逝去のため未完です。
「誘拐」は後編が「オール読物」平成二年3月号から始まり、
4月号の途中で連載が終わりでした。

特別長編「誘拐」は、鬼平こと長谷川平蔵のもとで、
おんな密偵を務める「おまさ」が誘拐される物語です。
誘拐したのは「荒神のお夏」という女賊です。
この女賊が「おまさ」に恋をしているのです。
女賊「お夏」が「おまさ」に同棲を迫って(多分です)。



ストーリーは入り組んでいますがこの先、
残念ながら読むことは永久に不可能です。
筆者の筆はここで止まっています。
女賊と女密偵のエロスの展開は果たして……???読みたいものです。

今後、大型活字の「剣客商売」を読むことにしています。
剣客・秋山小兵衛と若い嫁・おはる、子息の大治郎、妻・三冬。
池波さんの本は大型活字本がたくさんあります。
なお、大型活字本はすべて図書館からの借り出しです。

澤田ふじ子氏の「高瀬川」シリーズ「高瀬川女船歌」を読みました

2017-05-28 11:32:08 | 本・読書

「もどり橋」に続いて、2冊目の澤田ふじ子さんの作品を読みました。
「高瀬川女船歌」(たかせがわおんなふなうた)<上><下>

平成7年9月から9年6月にかけて「小説新潮」に連載され、
同年9月に新潮社から刊行され、その後「新潮文庫」になり、
2009年に埼玉福祉会から大活字本で出た本です。

高瀬川は京都・二条から鴨川に沿って南に流れる川で、
森鴎外の「高瀬船」の舞台にもなっている川ですね。
この川は角倉了以、素庵親子のよって開削された幅四間の掘割川。
京都と伏見、さらには京都と大阪を結ぶ水の交通の要路でした。



ときは江戸時代の安永・天明期を背景に舞台は京都。
高瀬川に沿って商う宿屋、荷蔵、酒問屋や炭問屋など商家が中心です。

物語は高瀬川運輸の管理をする「角倉屋敷」内に位置し、
川筋の中でも重きをなしている「旅籠の柏屋」を中心に
――中秋の月/冬の蛍/鴉桜/いまのなさけ/うなぎ放生、
かどわかし/長夜の末日/あとがき/解説――の7編からなっています。

17歳のお鶴は京都・高瀬川沿いの旅籠「柏屋」の養女になって8年。
柏屋の主(あるじ)惣左衛門と伊勢夫婦、女船頭のお時、
捨て子だった少年平太、遊女小梅、謎の男・宗因――。
人々の暮らしや出来事の人生ドラマが描かれています。

江戸時代の京都。セリフは京言葉で綴られており、
現代小説のように、テンポよく読み進むには難儀でしたが、
読み終えて、じわっと来る人生の哀歓がこころに染みます。
澤田さんの作品を、もう少し読んでみようと思いました。



動物を知ることは、動物の感じている世界を知ること

2017-05-19 20:23:39 | 本・読書

「動物はなぜ動物になったか」「動物のこころを探る」


最近、こんな本を読みました。
なぜ手にしたかというと、例によって、
池波さんの「鬼平」の三分冊を借りて、
後の二冊分として物色していたら目に留まりました。



一冊目は日高敏隆著「動物はなぜ動物になったか」
玉川大学出版部の玉川選書として1976年に刊行された本を、
埼玉福祉会から大活字本として出版されたものです。

地球上の生き物(生物)は、動物と植物とに分けられている。
動物は「エサ」を食べるから動物になったのだ、という。
捕食する生物ーーヒトもかつては捕食される対象でもあった。
しかしヒトは現在、捕食者の頂点に君臨している。

「エサ」を必要としない生物は植物になった。
植物は太陽光と空気と水をエネルギー源にしている。



動物は「エサ」つまりは他の生物をエネルギー源としている。
「エサ」を捕る・探すには動かなければならない。
「動く」には、光を感じなければならない。
つまり「目」がなければならない。

暗闇の中にいた原始生物が初めて可視化・目をもったことによって、
光を感じて捕食者にななったのだという。
それは5億年前くらいのことだという。
「捕食」のための耳、鼻(嗅覚)、動体感覚・手脚が発達していった。
知能の発達が著しかったヒトが最終的に動物の頂点に立つことになった。



捕食、被捕食の関係になっていく動物たちは、
固有種としての感覚・器官の発達をDNAとして継承する。、
被捕食、エサにならないための行動(毒、擬態、速い脚など)が、
個体・種ごとに、独自に発達して現在に至っているのだという。

食べる、逃げるの関係がDNAとして埋め込まれている。
動物たちは、教育されなくとも、親が付いていなくとも、
親と同じ行動と習性を子孫に残していけるのだという。

多くの動物は縄張り・巣を形成している。侵入したものを攻撃する。
それは同種、つまり捕食の対象でない侵入者の排除行為なのだ。

著者の日高敏隆教授(1930~2009)は我が国における、
動物行動学者の草分け的存在で、
多くの著書を残されています。



もう一冊は小原秀雄著「動物のこころを探る」―人間性の源流。
この本も玉川大学の出版部から出た本を、
大型活字本として復刊したものです。

私たちは野生動物を見ることにより、
人間とは何であるのかを知ることができるのではないか。



基本的に「人間は特殊な動物である」ということ。
哺乳類の中では非常に変な動物であって、
動物の社会とどのような違いがあるのか。



オスとメス、親子、快感・不快などを例にとって、
動物の社会について論じ、人間の社会とはどこが同じで違うのか、
動物の行動類型を通して「内的世界」を考察されています。

小原秀雄教授(1927年~ )は動物学者で、
自然保護の研究でさまざまな功績を残されています。
また、一般的な生物に関する多くの啓蒙書を著しています。



「動物を考える」同じ系統の2冊の本を続けて読んだせいか、
内容が入り混じって、前後が混同しています。
しかし、両書とも文章が古典的な感じで教科書を読んでいるみたいでした。
獣の走り、鳥の飛び方、蝶の舞い方など「動物の行動」は、
決して気まぐれではなく、誕生と同時に運命づけられている。
種としてのパターンが埋め込まれていることがよくわかりました。

澤田ふじ子著・長編時代小説「もどり橋」を大活字本で読みました

2017-04-07 13:37:09 | 本・読書

最近、こんな本を読みました。
大活字本シリーズの<上><下>2冊の長編時代小説、澤田ふじ子著「もどり橋」
底本は中央公論新社 (中公文庫)です。

なぜ、この本を手にしたのかというと、例によって、
池波さんの「鬼平犯科帳22巻・3分冊」を借りて、後の2冊分として目に付いたからです。
澤田ふじ子という作家の本を初めて読むことになりました。



京都――上嵯峨野村の百姓の娘・お菊は15歳になる前年、
働きものの父、病状の母と二人の妹弟をおいて、
三条東洞院の料理茶屋・末広屋に5年の季奉公に出ることになった。

お菊は、奉公先を紹介してくれた仲買人の与兵衛に伴われて旅だった。
やがて堀川に架かる「一条もどり橋」にさしかかる。
ああ、「あれがもどり橋どすか――」
この世とあの世の境界とも言われ、何かと死にまつわる因縁が付きまとう。
刑場の様を見てしまったお菊は、身のひるむ思いに駆られるのだった。



末広屋に着いたお菊を待っていたのは、しきたりの厳しい京料理の調理場だった。
何よりも仕事の仕分けと序列による厳しい修業を知ることだった。
板場頭の留五郎のもと、脇板、煮方、脇鍋、焼方、八寸方(盛方)、
立回り、見習い、下洗いなど、あらゆる雑用をさせられる追回しからなっていた。
煮方以上が一人前として扱われ、それまでは職人ととして扱われなかった。



お菊は寂しさと不安のなか日々、身を粉にして立ち働くのでした。
修業人の中には有名料理屋の息子で何かと横柄な才次郎、その腰巾着の市松。
武家の御賄人の嫡男の小仲太、生真面目な又七らの同輩と、
女中頭のお千代、雑用のお小夜の下、
しきたりや仕事の手順にも慣れていく日々となった。

お菊はやがて、一方的なものと知りながら又七と心を通わせるようになる。
又七もまた、お菊の存在が日々の励みになっていた。
その又七が主の目に留まり、跡取りの一人娘・奈みの婿養子に入ることになる。



又七とは約束した訳でもないお菊には、どうすることもできない。
落胆ぶりを見せないように立ち振る舞うお菊ではあったが、‥‥‥‥
憔悴ぶりは誰の目にも明らかだった。

そんなお菊にある日、思いがけない訪問者が末広屋に訪れていた。
お菊の運命を拓く大きな虹がかかっていた。
彼女の胸裏で、堀川のもどり橋と冬の虹が一つに重なった。



有名料理屋の調理場で困難や失敗にめげず、
未来を切り開いていく若者群像の姿が清々しい長編時代小説。
物語の舞台は京の料理茶屋ということで、
京の食べ物や当時の料理界の様子がきめ細かく描かれています。



料理に関しては日ごろ、まったく何もしないたにしの爺、
一生懸命働く人の運命には十分興味深く読めました。
会話がすべて「京ことば」で書かれているのも慣れるのには苦労しました。



作家・澤田ふじ子、初めての作家でした。
巻末で清原康正氏が解説で作家・澤田さんについて述べています。
作者のデビューから最近まで、また、作品系列について詳細に紹介しています。
時代小説で捕り物から江戸市井物まで描く凄い作家だということを知りました。



池波さんの「鬼平」もそうですが、
藤沢周平、山本周五郎はじめ、時代小説には清々しさがありますね。
澤田さんの小説、これから気にかけて読んで行きたいと思います。

人間―有機化合物から、非有機物体に変身?―「サピエンス全史」

2017-02-23 11:32:48 | 本・読書

サピエンスの終焉、超ホモ・サピエンスへ、
コンピューターの中で人間の脳が動き回る

話題の文明書「サピエンス全史―文明の構造と人類の幸福」下巻を読み終えました。
  たにしの爺、上巻については、暮れから正月にかけて読み終えて、
1月8日に「人類種として唯一生き延びたホモ・サピエンス」として記事にしています。

下巻の順番が来るのを待っていましたが、2月10日に連絡が入って返却日は25日でした。
しっかり読んでいきたいと思いつつ、図書館の本ということと、
順番待ちの人が4人もいるので、どうしても速読になってしまいました。
上下巻とも再度、借り出して読みたい本です。
どうでもいいことを長々しく書き出しましたが、
下巻について述べるには助走が必要でした。



<下巻>の構成は<上巻>第3部「人類の統一」の続きの章として、
・宗教による超人間的秩序
・歴史には必然性があるのか、と問う。それは「ノー」であるとする。
 歴史は何らかの「謎めいた選択」の結果だとする。

*第4部は「科学革命」
・人類は過去500年間で前例のない驚くべき発展をした。
科学が「帝国主義」「資本主義」「産業革命の推進力」となって、
市場の拡大と限りない欲望のグローバル化をもたらした。
しかし、それら文明は人間を幸福にしたのか、と問う。

・「国家や権力の発展」は必ずしも、みんなの幸せにつながらない。
拡大や成長ばかりを追い求めることになってしまう。
狩猟採集民の方が、現代人より幸せだったのではないかという。



*最終の第20章「超ホモ・サピエンスの時代へ」
・バイオニック生命体から、ホモ・サピエンスの性能を高めて、
異なる種類の存在にしようとしている科学プロジェクト。
・それらのプロジェクトはもう、止められなくなっている。
・ギルガメッシュ・プロジェクトは科学の大黒柱なのだと。

そして、私たちが直面している真の疑問は、
「私たちは何になりたいのか?」ではなく、
「私たちは何を望みたいのか?」かもしれない。
と結論付けます。

「あとがき――神になった動物」の冒頭の部分と、最後の3行を引用します。
・7万年前、ホモ・サピエンスはまだ、
アフリカの片隅で生きていくのに精一杯の、取るに足りない動物だった。
ところがその後の年月に、全地球の主となり、生態系を脅かすに至った。
今日、ホモ・サピエンスは、神になる寸前で、
永遠の若さばかりか、創造と破壊の神聖な能力さえも手に入れかけている。

<中略>

・その結果、私たちは仲間の動物たちや周囲の生態系を悲惨な目に遭わせ、
自分自身の快適さや楽しみ以外はほとんど追い求めないが、それでもけっして満足できずにいる。
・自分が何を望んでいるかもわからない。不満で無責任な神々ほど危険なものがあるだろうか?


読み終えて、 たにしの爺的感懐は「ホモ・サピエンス」の歩みは、
弱肉強食、先進と停滞、支配と隷属の連鎖であって、この先、
私たちはすでに、生存の一部を委ねている「バイオニック生命体」の支配による、
「不死」の人間になる道が開け始めている。「死なない人類」の誕生である。
行き着く先は「ホモ・サピエンスの終焉」です。



このままでは、サピエンスは地球を荒廃させる最も危険な生物でしかない。
そう警告する著者は若いイスラエル人歴史学者・ユヴァル・ノア・ハラリである。

本書は老い先の短い「好奇高齢者(後期高齢者)」にとっても、
100年後の地球世界を知っておくために熟読に値する。
「私たちは幸せだったのか」とー―



NHK「クローズアップ現代」
2017年1月4日(水)放送のハイライトを参考に再度添付します。
――“幸福”を探して 人類250万年の旅 ~リーダーたちも注目!世界的ベストセラー~――


持続的好奇高齢者になる「感動する脳」

2017-02-07 09:59:12 | 本・読書

感動の素―「意外性」と「懐かしさ」が感情を揺さぶる。

最近、こんな本を読みました。
「感動する脳」茂木健一郎著<PHP研究所>

手にしたきっかけは、いつも行く市川市の図書館。
大活字本のコーナーで池波さんの「鬼平」第19巻全3分冊と、
残りの2冊分(5冊が借り出し限度)を物色していたら、
目についたのが、表題の「感動する脳」でした。
借りてよかった、とても参考になり、大いに「感動」しました。



人の「心」を動かす源流は脳にあると著者の言う。
脳を活性するには「感動すること」だという。

アインシュタインが「感動することをやめた人は、
生きていないのと同じことである」と言ったように、
「感動」こそが、人を新しい行動にかりたて、
そして、人生を変える力になるというのが同書のコアとなっています。



齢をとると、よく「涙もろくなる」という。
たにしの爺も最近では、
「稀勢の里」の優勝インタビューを見ていて、目頭が緩みました。
映画を見ていて、暗がりで涙が出て、頬を伝わることがよくあります。
いづれも「感動した」証ですね。



人生において、胸が締め付けられるような苦しい思いや、
悲しみを味わうことがあります。
また、胸がワクワク、ドキドキする喜びを感じるときもあります。
脳科学者の著者は言う。
それらの苦しみや喜びのメカニズムの素は、
心・ハートではなく「脳内現象であると」。



同書によって「蒙が啓かれ」「感動した」フレーズを、
目次と本文から、いくつか抜き書きしてみました。

はじめにーー心は脳に宿る
人間の「心」を支配する脳
大切なのは「意欲」
「根拠なき自信」でも、脳は自信を持つ
意欲が脳を刺激する
人生は不確実性に満ちている
意欲は美しい環境から生まれる
欲望のレベルを高くしよう
「感動」は脳を進化させる
「若さ」とは、変化するということ
たくさんの言葉が心を豊かにする
「ネガティブ脳」のメカニズム
負のスパイラルから抜け出す方法
「感動脳」を育てる
心に空白部分をつくる



意欲なくして創造性は芽生えず、創造性のないところに、感動はやってこない。
脳は体験したことを一生、蓄積続ける。
側頭葉に蓄積された情報は、前頭葉によって「意欲」や「価値観」は活用される。
努力によって、多くの情報を側頭葉に蓄積するのが秀才で、それを前頭葉によって想像力に変えていくのが天才。
人間の文化は、美意識への高い欲望から生まれる。
不確実性へのチャレンジこそが、脳を活性化させる重要な要素である。
心の持ちようが脳の活動を裏付ける。
引っ込み思案の人は、脳までが引っ込み思案になっている。



本書は、評判の脳科学者・茂木健一郎さんが、
感動のメカニズムと人生について述べたもので、
ワクワク、ドキドキした日々を送りたい高齢者に必読の書です。
たにしの爺、「好奇心」と「感動」を求めて今日も徘徊を続けます。




池波さんの「鬼平」を読んでいると、実に楽しいです。
「鬼平」が終わったら、「剣客」です。

たにしの爺が待っている「ゴドー」は既に通り過ぎた??

2017-01-15 13:58:40 | 本・読書

最近、こんな本を読みました。
サミュエル・ベケット「ゴドーを待ちながら」(訳者、安堂信也・高橋康也)2009年1月10日・白水社刊。

何故この本を、この時期に、読むことになったのか、
長文になりますが、そのきっかけを書いて見ました。

昨秋から暮れにかけて、毎日新聞紙上で複数回、目に留まったフレーズがありました。
――「ゴドーを待ちながら」――



*①2016年12月17日、毎日新聞朝刊、コラム「危機の真相」。
同志社大・浜矩子教授が毎月書いているオピニオンコラム。
「日露首脳会談 ウラジーミルを待ちながら」と題した記事。

多岐にわたる内容でしたが、表題の当該部の要旨は――
安倍首相は長門市の温泉旅館でプーチン大統領を待っていた。
ウラジーミルは予定より2時間半ほど遅れてやってきた。
ウラジーミルを待ちながら、晋三さんは何を考えていただろう。

筆者・浜教授は「ゴドーを待ちながら」という芝居について述べて、
いま世界中が「ゴドーを待っている」として、
アメリカにはトランプという「ゴドー」が来るが、何者か良く分からない。
総選挙目白押しのヨーロッパ各国でも「ゴドー」を待っている。
「ゴドー」に期待しながら、結局、不条理な結果になるのか、
「良きゴドーが来てくれますように」と筆者は結ぶ。
「日露首脳会談 ウラジーミルを待ちながら」



たにしの爺、「ゴドーを待ちながら」について調べました。
サミュエル・ベケット(アイルランド生れのフランスの小説家・劇作家)の
二幕の不条理劇の戯曲だと知りました。

登場人物は、
エストラゴン(ゴゴ)
ヴラジーミル(ディディ)
ラッキー、ポッウォ
男の子

エストラゴンとヴラジーミル、2人の浮浪者が田舎の一本道でゴドーという人物を待ち続ける。
二人は待ちながら、脈絡もない、帰結もないセリフを、エンドレスにしゃべり、
そして沈黙、またしゃべりを続ける。



そこに、ラッキー、ポッウォの乞食同様の二人が登場する。
さらに、論理的非連続なおしゃべりと、奇妙な動作が繰り返される。
二人が去った後、少年が登場して「ゴドーは今日は来ない」という。

日が変わって「二幕」――
登場人物は同じ、同じように、脈絡のない不連続なセリフが続く。
そして結局、ゴドーは現れなかった。
また、ゴドーは何者であるかもわからないで終わる。



解説によりますと(要旨)、
「この芝居が現代演劇最大の傑作(あるいは問題作)であることを疑う者は、おそらくいない。
匹敵するのは唯一の『ハムレット』あるのみかもしれない。」という。



*②この不条理演劇が直近、演じられることを知りました。
2016年12月28日、毎日新聞夕刊、カルチャー芸能面。
柄本明、佑、時生父子「ゴドー」には宝の山がある――の記事をみました。
劇団東京乾電池が来年1月5日から10日柄本明(えもと・あきら)演出で、
ベケットの「ゴドーを待ちながら」を上演するという前触れ紹介記事でした。

記事によりますと、佑と時生は1年半前にも演じています。
「すぐにもう一回したいねと時生と話しました」と佑。
今回は父明に演出を依頼したという。
息子2人には「ゴドーができるのは、大変なぜいたく。長くやることで、
その中に隠された宝の山があると思う」と父明のアドバイス。



「ゴドー」をひたすら待ち続ける、ヴラジーミルに柄本佑(たすく)、
エストラゴンに時生(ときお)の兄弟が出演する。
そこへポッツォ(ベンガル)とラッキー(谷川昭一朗)が現れる。
「ゴドーを待ちながら」は1月5~10日、東京の下北沢ザ・スズナリ。(以上、記事の要旨です)

劇評、出来栄えについては分かりませんが、切符完売で公演は終わっています。
劇団東京乾電池

 父・柄本明、息子の佑と時生親子。
テレビ、映画作品で、特異な風貌で異彩を放つ役者ぶりは知っていますが、舞台劇もやるとは知らなかった。
二人の息子もテレビの朝ドラにも出ていて、個性的というか、
不気味さの中に、おかし味を感じさせる芸能人だと思っていましたが、
こういう戯曲まで演じるとは知りませんでした。



*③2016年12月25日、毎日新聞、今週の本棚
保坂和志著『地鳴き、小鳥みたいな』(講談社・1620円)の書評のなかで、
評者の鶴谷真さんが、カミュの小説「異邦人」やベケットの戯曲「ゴドーを待ちながら」を引き合いに出して、作品を解説していました。



 たにしの爺、演劇とか、戯曲・舞台劇については全く不案内です。
関心もなく、これまで見たこともありません。
記憶にあるとしたら、何かの招待で行った「明治座」で、
梅沢富美男一座のバタバタ劇を見たくらいです。

今回読んだ戯曲「ゴドーを待ちながら」は実に面白くありませんでした。
最後まで読むためには大変な辛抱をしました。
幸いというか、不幸にもというべきか通院がありましたので、
病院の待ち時間という閉鎖的時空の中で、
何かに集中するしかない状況において読み終えました。



戯曲は読むのと、舞台で芝居として観るのでは、感じるものが違うのでしょうね。
しかし、たにしの爺が思うには、
芝居とか、演劇は役者にこそ身体的エクスタシーがあるのであって、
観る側には、どのようなエクスタシーがあるのか、
よく、「総立ちのカーテンコール」とかと言われますが、
経験したことがないのでわかりません。
この歳になっても演劇とか舞台の感動を知らない。
自己顕示には引っ込み思案の「たにしの爺」です。

たにしの爺が待っている「ゴドー」なんだろうか――。
80年近くも待っているが「ゴドーは何者かわからないし、まだ現れない」
それとも、すでに来て、去って、しまっているのだろうか。
皆さん「ゴドー」は待っていても、決して来ないでしょう。

人類種として唯一生き延びたホモ・サピエンス

2017-01-08 11:13:25 | 本・読書

話題の本「サピエンス全史」の上巻を読み終えました。
著者ユヴァル・ノア・ハラリ氏はイスラエル人歴史学者です。
600万年前に種の原型が現れて、現代までの全歴史過程を解く。
サピエンスのDNAには凶暴因子が含まれているという。
人類の行き着く先には‥‥‥‥‥‥



たにしの爺、昨年の秋、市の図書館に行って、
ユヴァル・ノア・ハラリ著「サピエンス全史」上・下(河出書房新社、上下各2052円)
購入希望図書として注文しました。

係りの人曰く「この本でしたらすでに購入済です」
「順番待ちの人がいます」という。
たにしの爺「えっ、ほんと、すごい」と、
購入担当の司書様に敬意を表して、順番待ちのリストに登録しました。



暮れに順番になりましたという連絡を受けて、
「上」だけ手にすることが出来ました。返却期限が1月7日、
「待っている人がいるので、延長はできない」ということでした。

暮れから正月、活字のぎっしり詰まった本書の虜になりました。
一行、一行に歴史の詰まった文章で書かれています。
読み飛ばすような内容ではありません。
その上、読了の期限がありました。



本日7日、上巻を返却、下巻の借り出しリストに登録しました。
待機者が4人もいるという。
手元に来るのは2カ月先になるでしょう。
たにしの爺、上巻をとりあえず目を通した段階ですので、
読評コメントをするなんてできません。



表紙の見返しに記された紹介文の一部です。
――アフリカでほそぼそと暮らしていたホモ・サピエンスが、
――食料連鎖の頂点に立ち、文明を築いたのはなぜか。
――その答えを解く鍵は「虚構」にある。
――我々が当たり前のように信じている国家や国民、企業や法律、
――さらには人権や平等といった考えまでが虚構であり、
――虚構こそが見知らぬ人同士が協力することを可能にしたのだ。
‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥
‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥



たまたまNHKのクローズアップ現代で、
この本が取り上げられていましたので紹介します。
クローズアップ現代:1月4日(水)放送

下巻が届くまで、「鬼平」を楽しむことにします。



それと、上野で開催中の特別展、
「世界遺産 ラスコー展 〜クロマニョン人が残した洞窟壁画〜」
にも行って見ます。

本日9日、毎日新聞朝刊に出ていた書籍広告です。