写真は雲南省中南部の広南奥地の村にて。村で現役で活躍する石臼。この村でもこんにゃくと野菜の炒め物が供された。この石臼でひいて作ったこんにゃくだったかもしれない。(2004年撮影)
【中国も注目するこんにゃくと日本の政治】
雲南省は原産地とはいえ、2000年まで中国では地元の人以外は食用としてほとんど食べられることのなかったこんにゃく。
それにはわけがあった。
こんにゃく芋はそのままではすぐに腐ってしまい、保存が効かないのだ。
つまり、本来ならば収穫の時期しか食べられない食品な上に、
①芋を育てるのに3年もかかるは(その間、その畑で他の作物は作れない)、
②今は品種改良が進んだとはいえ、かつては葉が傷つくだけでも腐るほどデリケートで育てにくいは、
③たとえ無事に収穫できても、今度はこんにゃくを作る手間もけっこうかかるは(それをしないとえぐみが強くて食べにくすぎる)、
④さらにほとんどが水分という重さなので運搬にも手間がかかるは、
という、生産してもお金にならない作物だったのだ。
このどうにもならない「はずの」作物を経済作物へと変えたのが、日本だった。
『まんが日本の歴史』(大月書店)を見ると、江戸時代に水戸藩(茨城県)の中島藤右衛門が、こんにゃく芋を乾燥して粉にさせる製法を編み出したことから、軽量化(全国展開が可能になる)と保存の長期化ができるようになったという。
こうして季節ものから、一般庶民の食べ物へと変貌したことで、こんにゃくは、世界の中でも特異な進化を遂げることができたのだ。
なんと江戸時代が崩壊する引き金となった大老・井伊直弼を暗殺した「桜田門外の変」も「こんにゃく」が重要な役割を果たしたという。常陸国久慈郡袋田村(ひたちのくにくじぐんふくろだむら)のこんにゃく農家・桜岡家ほかこんにゃく会所の人々はこんにゃく芋をスライスして干して、これを豊富な川の水を使って何台もの水車でひいて粉にしたものを江戸や大阪に売って豪商となっていた。そのお金が、水戸浪士の運動資金に寄付されていたのだ。
そして現在。日本のこんにゃく芋の9割を生産する群馬県。この県から総理が5人誕生しているのだが(鈴木貫太郎、福田赳夫、中曽根康弘、福田康夫)、その中の一人・小渕恵三氏の出身地の中之条町を通ったことがある。
ともかく見渡す限りのこんにゃく畑。地元の人によると、かつて桑畑だったところを、このようにしていったのだとか。
このこんにゃくを守るべく、小渕氏はみずから自民党こんにゃく対策議員連盟会長をつとめ(現在はその娘の小渕優子が後継懇談会の事務局長を務めている。)、
結果、農産物価格の自由化でももめにもめたウルグアイラウンドでは、こんにゃくは関税によって守られる側にすべりこんだ。
関税が始まった1995年には、輸入品(おもに中国)価格が圧倒的に安かったため、関税率は結果的に1706%に相当し、現在は輸入ものも値段が上がってきたため350%相当の関税で国内保護されているそうである。(関税割当制度の計算は少し面倒なので割愛します。)
こんにゃくは今でも政治のにおいがするらしい。それだけ、米と同じぐらい日本的な食品の証拠なのかもしれない。
(つづく)
*こんにゃく問答。もうしばらくお付き合いください。