写真は大理の市場にて(2004年2月撮影)。海抜2052メートルの強い日差しと、標高4122メートルを誇る蒼山から吹き下ろす冷たい風から身を守るため、足先まで隙のない、重ね着服と頭を守る帽子はかかせない。大理の中心民族の白(ぺー)族は頭に藍染めの布をタオルを頭に巻くようにかぶる。中には本当にタオルを3、4折りにたたんで頭に巻いている人も。若者はポリエステルでできた観光用の華やかなピンクの花の刺繍のかぶりものか、野球帽のようなもの、麦わら帽の人が多かった。
【沐英の安定した統治】
さて、前回にも少し触れたように沐英軍のみの駐屯となってから重要なことは、明の防衛と所有地、食糧の獲得のために屯田に取り組んだことです。このインパクトが現在にまで及ぶ大事業となり、「沐英」の章の冒頭で紹介した「沐英と辺境開発」会議で「沐英に見習え」風のスローガンへと結びついているわけです。
洪武20年には、5年前に帰順させた大理の60里(36㎞)ごとに1つ、屯田の基地を造るなど屯田開墾は100万畝(580万平方㎞)に及び、また滇池から排水用の水路を引いて、浚渫をし、水害を治めました。さらに塩田の商売を促進し、税や力役を人々に課し、財政を安定させました。政治はおおらかで民衆はたちまち安心した生活を送れるようになったと『明史』では彼の治績をたたえています。上記の治績はすべて雲南掃討戦を継続している中で行われたことが沐英のすごさです。
沐英の人となりは読書好きでも、文は書かず、知識のある人を呼んで話を聞くのが好きだったとのこと。議論には参加しなかったそうです。若い頃から戦乱に明け暮れていたのですから、勉強に興味があっても知識は実践で身につけるしかなかったことと、養子という身分から謙虚な性格が形成されたのでしょう。それは統治者としての重要な資質だったのです。開拓事業も労働者に混じって、みずから鍬を篩い、語る姿も見られたそうですから。
沐英が雲南に来て11年目の洪武25年(1392年)、朱元璋の息子で皇太子の朱標が若死にしたため、沐英は大声で嘆き(その10年前に沐英が養子になったときに母親として面倒を見てくれた朱元璋の妻の高皇后が亡くなったときも血を吐くほど嘆いた)、それが元で病気になり、雲南で病死しました。享年48才。後は息子の沐春が引き継ぎました。彼の治世も非常に評判がいい。沐英に従軍して父を支えていた苦労人の一人だったのですから2代目もしっかり者に育ったわけです。
沐英は長生きとはいえませんが、後の歴史から考えると、このタイミングでの死は幸運でした。なにしろ功臣として南京の太祖廟に祀られたのですから(今でも南京に祀られています)。
じつは明の朱元璋は、皇太子の朱標が亡くなったために、次の皇太子にまだ頼りない年令の孫を指名せざるを得ず、心理的に追い詰められ大粛正を敢行してしまったのです。世にいう藍玉の獄。自分の一族の安泰を考え、力のある功臣をとにかく難癖をつけて潰しまくるのです。
沐英と同じ副将の身分で雲南をともに攻めた藍玉の粛正に始まって彼に関係のある人々、当然、雲南攻めで将軍を務めた傅友徳も粛正されます。結果、1万5000とも3万人がこの世から消されました。もし、沐英がその時に生きていたら、粛正は免れなかったのではないでしょうか。そして沐英の子孫が雲南支配を続けることもできなくなったことでしょう。 (つづく)
【沐英の安定した統治】
さて、前回にも少し触れたように沐英軍のみの駐屯となってから重要なことは、明の防衛と所有地、食糧の獲得のために屯田に取り組んだことです。このインパクトが現在にまで及ぶ大事業となり、「沐英」の章の冒頭で紹介した「沐英と辺境開発」会議で「沐英に見習え」風のスローガンへと結びついているわけです。
洪武20年には、5年前に帰順させた大理の60里(36㎞)ごとに1つ、屯田の基地を造るなど屯田開墾は100万畝(580万平方㎞)に及び、また滇池から排水用の水路を引いて、浚渫をし、水害を治めました。さらに塩田の商売を促進し、税や力役を人々に課し、財政を安定させました。政治はおおらかで民衆はたちまち安心した生活を送れるようになったと『明史』では彼の治績をたたえています。上記の治績はすべて雲南掃討戦を継続している中で行われたことが沐英のすごさです。
沐英の人となりは読書好きでも、文は書かず、知識のある人を呼んで話を聞くのが好きだったとのこと。議論には参加しなかったそうです。若い頃から戦乱に明け暮れていたのですから、勉強に興味があっても知識は実践で身につけるしかなかったことと、養子という身分から謙虚な性格が形成されたのでしょう。それは統治者としての重要な資質だったのです。開拓事業も労働者に混じって、みずから鍬を篩い、語る姿も見られたそうですから。
沐英が雲南に来て11年目の洪武25年(1392年)、朱元璋の息子で皇太子の朱標が若死にしたため、沐英は大声で嘆き(その10年前に沐英が養子になったときに母親として面倒を見てくれた朱元璋の妻の高皇后が亡くなったときも血を吐くほど嘆いた)、それが元で病気になり、雲南で病死しました。享年48才。後は息子の沐春が引き継ぎました。彼の治世も非常に評判がいい。沐英に従軍して父を支えていた苦労人の一人だったのですから2代目もしっかり者に育ったわけです。
沐英は長生きとはいえませんが、後の歴史から考えると、このタイミングでの死は幸運でした。なにしろ功臣として南京の太祖廟に祀られたのですから(今でも南京に祀られています)。
じつは明の朱元璋は、皇太子の朱標が亡くなったために、次の皇太子にまだ頼りない年令の孫を指名せざるを得ず、心理的に追い詰められ大粛正を敢行してしまったのです。世にいう藍玉の獄。自分の一族の安泰を考え、力のある功臣をとにかく難癖をつけて潰しまくるのです。
沐英と同じ副将の身分で雲南をともに攻めた藍玉の粛正に始まって彼に関係のある人々、当然、雲南攻めで将軍を務めた傅友徳も粛正されます。結果、1万5000とも3万人がこの世から消されました。もし、沐英がその時に生きていたら、粛正は免れなかったのではないでしょうか。そして沐英の子孫が雲南支配を続けることもできなくなったことでしょう。 (つづく)